東京 北の丸公園 2012-08-09
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(24)
「第1章 ショック博士の拷問実験室」(その4)
マギル大学の心理学科長ドナルド・ヘップ博士の実験
CIAには、当然ながら違う意味での関心があった。しかし、たとえこのような密室の会議であっても、ナチによる拷問の事実が世界中を震撼させて間もないこの時期、CIAが従来の方法に代わる独自の尋問方法の開発に関心を持っていることを公然と認めるわけにはいかなかった。
モントリオールでの会議の出席者の一人にマギル大学の心理学科長ドナルド・ヘップ博士がいた。機密解除文書によれば、ヘップは捕虜となったアメリカ兵がなぜ敵に操られて自白したのか、その理由を解明しようとしており、共産主義国が捕虜を極度の隔離状態に置いたり、感覚遮断を行なうことで精神をコントロールしているのではないかと考えていた。
CIAの高官らはこのことに強く印象づけられた。三ヵ月後、ヘップはカナダ国防相から感覚遮断に関する秘密実験を行なうための研究資金を手にする。
ヘップは同大学の学生六三人に一日二〇ドルを支払い、実験を行なった。目には黒いゴーグル、耳にはホワイトノイズの流れるヘッドホンを着け、手と腕は物に触れられないように段ボールで覆われた学生たちは、視覚、聴覚、触覚を奪われた状態で無の海に漂い、日に日に研ぎ澄まされる想像の世界の中で何日間も過ごした。
その後、ヘップは実験前に学生たちが同意できないと答えていた幽霊の存在や、科学の不正について語るテープを聞かせ、感覚遮断によって「洗脳」されやすくなるかどうかを凋べた。
カナダ防衛研究委員会はこの実験結果についての機密報告書のなかで、感覚遮断は被験者の学生たちに極度の混乱と幻覚を引き起こし、「知覚遮断の期間中およびその直後、一時的に著しい知的能力の低下が生じた」としている。さらに学生たちは外部からの刺激を渇望するあまり、テープに録音された事柄に対して驚くほど受容的になり、なかには実験終了から何週間もオカルトへの興味が持続した者もあった。まるで感覚遮断によって彼らの心の一部が消去され、そこに加えられた感覚的刺激によって新たなパターンが書き込まれたかのようであった。
ヘップの主要な研究論文のコピーはCIAに送られ、さらにアメリカ海軍に四一通、アメリカ陸軍には四二通のコピーが送られた。
CIAはこれとは別に、ヘップの研究助手の学生の一人であるメイトランド・ボールドウィンから直接、実験結果を報告させていたが、このことについてヘップは知らされていなかった。
CIAがこれほどまでに関心を持ったのは驚くにあたらない。ヘップの研究は、人間は徹底した孤立状態に置かれることで明断な思考力を失い、暗示にかかりやすくなることを証明していたからだ。これはいかなる尋問官にとっても、貴重な意味を持つ。
ヘップはやがて、自分の研究が単に捕虜となった兵士を「洗脳」から守るだけでなく、いわば一種の精神的拷問マニュアルとして使える大きな可能性を秘めていることを認識するに至る。
一九八五年に死去する前に行なわれた最後のインタビューで、ヘップは「防衛研究委員会に提出する報告書を作成したとき、これがじつに恐るべき尋問技術であることは明らかだった」と述べている。
ヘップの報告書によれば、被験者のうち四人が「この実験は一種の拷問だったと自分から感想を述べた」という。すなわち、限界 - 二日ないしは三日 - を超えて強制的に感覚遮断状態に置くのは、明らかに医療倫理に反するということである。これによって実験には一定の限界が生じることを踏まえ、ヘップは「被験者を三〇日から六〇日間、知覚遮断の状態に置くことは不可能」であるため、「明確な結論」は得られなかったと記している。
ヘップには不可能でも、キャメロンには可能だった
ヘップにとっては不可能だったことも、マギル大学の同僚で、研究上の最大のライバルであったユーイン・キャメロンにとっては百パーセント可能だった(のちにヘップは、学者の礼儀もかなぐり捨てて、キャメロンのことを「犯罪的なまでの愚か者」と形容している)。
キャメロンはすでに、患者の心を暴力的に破壊することは、精神的健康を取り戻すために必要な第一段階であり、したがって「ヒポクラテスの誓文」〔医師の義務倫理規定〕には違反しないとの確信を抱いていた。
治療への同意に関しても、患者はまさに彼の意のままだった。標準的な同意書には、前頭葉を完全切除するロボトミー手術に至るまで、治療に関する絶対的権力をキャメロンに与えることが記されていた。
アラン記念研究所は「収容所」に変貌した
キャメロンとCIAとの間には何年も前から接触があったものの、彼がCIAから研究資金を受け取ったのは一九五七年が最初だった。
この資金は人間生態学調査協会と呼ばれる偽装組織を通して「洗浄」されていた。そしてこの資金が投入されることによって、アラン記念研究所は病院から、おぞましい「収容所」とも言うべき場所へと変貌したのだ。
まず最初の変化は、電気ショックの回数が飛躍的に増加したことだった。
賛否両論のあるページ=ラッセル法の考案者である二人の精神科医は、一人の患者につき四回治療を行ない、合計二四回ショックを与えることを推奨していた。ところがキャメロンはこの装置を患者に一日二回、三〇日間にわたって使用し、一人の患者に三六〇回という恐るべき回数のショックを与えた。これはカストナーのような初期の患者が受けたショックの回数よりはるかに多い。さらにキャメロンは、すでに投与していたおびただしい数の薬物に加えて、CIAがとりわけ関心を持っていた精神変容作用のあるLSDやPCPといった実験的な薬物も患者に投与した。
(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿