東京 北の丸公園 2012-07-26
*安和2年(969)
4月1日
・この日、橘繁延を土佐に、翌2日には藤原千晴を隠岐に、僧蓮茂を佐渡に流すとの命が下る。
この日昼、源高明の西宮邸は2~3の小屋を残して全焼。失火か放火かは不明。
高明は、満3年目の天禄3年(972)4月、許されて帰京。
その後は葛野に隠棲して天元5年(982)12月、69歳で没。
この高明を最後として、藤原氏の他氏排斥の運動は終わる。
もはや藤原氏を脅かすにたる勢力は生まれ出る機会もなく、他氏も藤原氏を刺激するような行動は避け、権勢争奪の争いは藤原氏の内部で激化するこになる。
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4月3日
・源連・平貞節(さだとき)の追討が五畿七道に下令。
2人は逃亡した模様だが、貞節は11月8日に越後に流すことが決まる(この頃捕縛されたと思われる)。
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8月
・冷泉天皇が譲位し、弟の守平(もりひら)親王(11)が受禅。
実頼は摂政となる。
師貞親王(2歳、母は伊尹の娘の懐子)が立太子する。
冷泉上皇は、冷泉院に移り、寛弘8年(1011)に62歳で没するまで42年、上皇の地位にあった。
これは、後の白河上皇の43年に次ぎ、後鳥羽上皇の41年よりも長い。狂気は終生癒えなかった。
円融天皇は元服前の11歳であり、藤原氏の長老実頼が摂政になる。
実頼は外戚ではない異例の摂政であった。
翌年実頼が死ぬと、円融天皇の伯父の伊尹(これただ、忠平の子師輔の長男)が摂政となる。
伊尹は、天禄3年(972)に没し、その弟の兼通(かねみち)と兼家とが対立することになる。
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9月
・守平親王が即位。円融天皇。
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10月15日
・安和の変の首謀者、左大臣藤原師尹(もろただ)が没。
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安和3年/天禄元年(970)
3月
・天禄に改元。
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5月
・摂政実頼(71)が没し、右大臣伊尹(これただ、師輔の長男、円融天皇の外伯父)が摂政となる。
上席の左大臣に藤原在衡(ありひら)がいたが、79歳の老齢(年内に没す)。
師輔の子の世代に政治権力がうつり、孫の世代が天皇位につくことになった。
翌年、伊尹は太政大臣に進むが、天禄3年(972)に49歳で没す。
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7月
・天台座主良源「二十六箇条起請」を制定し、比叡山の綱紀を粛正する。
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9月
・永宣旨料物制を定める。
この月の太政官符で、御斎会(ごさいえ)・春秋の季御読経(きのみどきよう)・京中賑給(しんごう)・施米の料米・布・絹などが指定され、以後恒久的に納入させることとした。
指定された財源は、年料米・庸米・調布など国によって異なるが、年料のうちの一定部分を指定して納入させ、御斎会・季御読経など重要な仏事(施米は京周辺の僧尼に米塩を給う儀式、賑給は仏事ではないが京中の困窮者等に米を給う国家的行事)の支出を支えた。
さらに長保2年(1000)、春季・秋季の仁王会の料物(米・絹・布・抽)を割り振った。
これらをわりあてた官符・宣旨は「永宣旨(えいぜんじ)」と呼ばれるので、永宣旨料物制と称する。これにより、摂関期の宮中での三大法会(御斎会・季御読経・仁王会)が可能になった。
永宣旨に「若し期を違ひ未進を致さば、一度の勧賞を拘ぜん」とのべ、未進をすれば賞をとどめ功過定を通さないとして確保をめざした。
この永宣旨料物制はあ院政期に入ると、円宗寺(後三条天皇勅願寺)の最勝会・法華会、内裏での長日三壇御修法(さんだんみしほ)などの料物が全国に割り当てられ、拡大していく。
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12月
・源為憲「口遊」が成立。
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