2012年8月5日日曜日

天禄2年(971)~天禄4年/天延元年(973) 摂政太政大臣藤原伊尹(忠平の子師輔の長男)没。弟の権中納言藤原兼通が内覧となり、弟大納言兼家をおさえて内大臣になる。

東京 北の丸公園 2012-08-03
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天禄2年(971)
3月
・石清水臨時祭が恒例行事となる。
天慶5年(942)4月27日、将門・純友の乱平定の礼として初めて祭礼があげられ、この時は臨時祭であった。
この臨時祭が、この月から毎年行なわれることになって、日取りも3月の中の午の日と決まる。
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10月
・源高明を大宰府から召還する。
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11月
・摂政藤原伊尹が太政大臣、源兼明が左大臣となる
伊尹は太政大臣となり、天皇の外戚の摂政が太政大臣として、実権を一手に握ったことになる。
伊尹は、内裏後宮淑景舎(しけいしや)を直盧(じきろ、控え室)とし、摂政としての職務である除目・叙位を行った。
淑景舎は皇太子師貞親王の居所で、外戚(外祖父)である伊尹だからこそ使えた。
外戚でない摂関の場合は、良房・基経の時と同様に内裏外の職御曹司を直盧としていた
。伊尹以前にも摂政忠平が内裏後宮凝華舎や飛香舎を使用して除目などを行っているが、伊尹以降、外戚の摂関の直盧は内裏に置かれることが通例となる。
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天禄3年(972)
9月
・大宰府より高麗使が対馬に来着したとの報せが来る。
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11月
摂政太政大臣藤原伊尹(49、これただ、忠平の子師輔の長男)、没
弟の権中納言藤原兼通が、内覧となり、弟大納言兼家をおさえて内大臣になる。
兼家は元のままの大納言に据え置かれた。

兼通が妹で村上天皇皇后の安子から生前に「関白は兄弟順に」という書き付けを得ていて、それを円融天皇に見せたところ、天皇は亡き母の遺命を尊重して兼通を内覧・内大臣に補任したという。
円融朝に蔵人であった源親信の日記『親信卿記(ちかのぶきようき)』天禄3年11月15、26日条に、「外戚の重みと前宮遺命によって、内大臣に任命された」とある。

伊尹の弟の兼通(かねみち)・兼家兄弟の対立
兼通は兼家より4歳年上であり、兼通の方が先に昇進していた。
ところが、冷泉天皇即位時に形勢は逆転し、兼家は兄を飛び越して参議を経ずに正三位中納言に昇り、兼通はようやく参議の末席に連なることになる。
兼通は、妹の村上天皇の皇后安子から、その在世中に、「摂政関白は兄弟順にお選びになるように」という一札を密かに貰っていた。
そして、兄の摂政伊尹の病が重く、あぶないと見ると、参内して、10年以上前に貰っていた秘蔵の手紙を天皇に見せた。
円融天皇はその手紙が母の安子の筆跡であると知り、母の遺言に背くことはしなかった。
実際は、弟の兼家が大納言で上位にあり、兄兼通はようやく参議から権中納言に昇ったばかりの状況。

兼通は今までの恨みを晴らすかの如く、兼家の昇進を完全に止め、実頼の子で従兄弟に当る頼忠をもっぱら相談相手にした。
左大臣源兼明が親王に復帰させられたのも、一つには兼通が頼忠を左大臣に引き上げるための策だったらしい。
そして自分は関白太政大臣氏長者として最高位を占め、兼家を事ごとに悪口し、妨害した。
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天禄4年/天延元年(973)
この年
・良源は、最澄の忌日に行なう法華講会(六月会)に広学竪義(りゆうぎ)をおいたが、この年、源信がこれをつとめ、及科(合格)し、社会に認められた。
翌年5月に宮中での季御読経の内論義では、第三番の問者となり、のちに渡宋して有名になった答者の南都の奝然と議論している。

源信(942~1017):
『続本朝往生伝』で一条朝の天下の一物として、僧侶の「学徳」の第一にあげられる。
大和国葛下郡当麻郷に生まれ、父は卜部正親、母は清原氏であるという。若くして比叡山にのぼり、横川の良源の門に入った。
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・この年、炎上した薬師寺の再建を10ヶ国に割り当てる。
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12月
・天延に改元。
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