2012年8月8日水曜日

天延2年(974)~天延4年/貞元元年(976) 内大臣藤原兼通が太政大臣、続いて関白となる

東京 北の丸公園 2012-07-24
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天延2年(974)
この年
・赤斑瘡(あかもがき、麻疹)が流行
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・『今昔物語集』に描かれた平致頼とその一族
一族は維衡の祖父国香の弟良兼より始まり、子公雅・孫致頼と続く。
公雅や致頼らは、この年(天延2年(974))興福寺末寺であった祗園が叡山の末寺化した経緯を語る『今昔物語集』収載の説話(巻31-24)に姿を現わす。
延暦寺と祗園の間に武力衝突が発生したので、祗園側は「□ノ公正(雅)、平ノ致頼卜云フ兵ノ郎等共ヲ雇寄セ」た。
他方叡山側には致頼の弟で「極タル兵」の入禅という僧があり、天台座主の命により祗園に派遣されたところ、致頼の郎等たちは、「早ウ、山ノ禅師殿ノ御スルニコソ有ケレ」と恐怖し逃去り、ついに祇園が叡山の末寺化してしまう。
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2月28日
内大臣兼通が太政大臣となり、続いて 
・この年正月の尾張国百姓の愁訴により、5月、尾張守藤原連真を解任し、藤原永頼を任じる。
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5月10日
・この日、季御読経の3日目、南都と天台の学僧間の論義がなされ、第3番に良源の弟子源信(33)が問者となり、答者の東大寺の奝然(ちようねん)と対している。
この時、源信の論義は称讃を博し(『親信卿記』)、学僧源信の存在が貴族たちに認められた。
季御読経では春の3日目に5番の論義を清涼殿で行なった。
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天延3年(975)
・この頃、藤原道綱の母「蜻蛉日記」が成立
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・この年、宋で、科挙で皇帝自ら試験官となる殿試が始まる。
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天延4年/貞元元年(976)
4月11日
・大きめの地震あり。(本朝地震記)
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6月18日
・京で大地震。人家の倒壊による圧死者多数。山城、近江の国で特にはなはだし。
翌日より月末まで余震81回。天皇幄舎を建て御在所とする。
崇徳寺堂谷に転落し、僧千聖転落死する。
清水寺で圧死する者50人。
八省院、豊楽院、東寺、西寺、極楽寺、円覚寺等も倒壊。
近江国分寺大門倒壊。
内裏修理中の30余人死亡し、読経請僧童子も圧死。(本朝地震記)(日本紀略後 7)
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7月
・天皇が兼通の堀河第に移る(里内裏の初例)。
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7月13日
・地震により貞元に改元。大赦。(古事類苑)(本朝地震記)
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7月20日
・大地震。前後に余震頻発。(日本紀略後 7)
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9月23日
・大地震。(本朝地震記)
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