東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-07-31
*貞元2年(977)
4月
・安和の変(安和2年(969))で失脚させられた源高明と同年の異母弟源兼明(天禄2年(971)左大臣)、勅により兼明親王として皇族に復帰させられ、政治権力から排除された。
源兼明は、兼通に次ぐ左大臣。醍醐天皇の皇子であること、詩文にすぐれ、賢明の聞こえ高かく、左大臣であることも、全て兄高明と同じであった。
但し、皇統や北家主流と姻戚関係を結んでいないため危険人物と見られなかった。
しかし、藤原氏の首脳が交替するなかで、左大臣の地位を占め、陥れるような欠陥もない兼明は、藤原氏としては、危険ではないにしても邪魔になったし、処置に窮したと思われる。
この時、兼明は勅によって再び親王に復し、二品中務卿という待遇に祭り上げられた。
親王は大宰帥・中務卿・式部卿・兵部卿・弾正尹などという名誉職を与えられて、実際政務には携わらないので、兼明は政界と絶縁したことになる。
高兼明は、兄の悲劇を見て、さらに自らも親王に戻され、不満を抑え難く、「君昏くして臣諛(へつら)ふ(君は暗君、臣下はへつらい)」という痛烈な批判の詩を作る。
こののち、兼明親王は嵯峨の亀山に隠居して一生を終えた。
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10月
・関白太政大臣藤原兼通(53)、病のため外戚ではない従兄の左大臣頼忠(実頼の二男)に関白を譲る。
兼通の次は自分と考えた弟の兼家は、関白にしてもらうべく円融天皇に願うため行列を整えて参内した。
その行列が兼通の邸宅の方へ向かってくると聞き、兼通は弟が病気見舞に来たと喜び、迎える準備をしたが、行列が邸宅の前を通過して内裏へ向かうと知り、激怒した。
兼通は、病をおして直ちに参内し、最後の除目を行ない、関白を左大臣藤原頼忠に譲り、兼家の右近衛大将を奪って藤原済時に与えた。
これで安堵した兼通は、翌11月に没したという。(『大鏡』」流布本系の写本)
実際には、この4月に頼忠は既に左大臣(源兼明のあと)に任命されている。
兼家は大納言にすぎず、関白になるには無理がある。
前後2回、兄の兼通に妨害をされた兼家は、その後の約半年間、出仕しなかった。
しばらく隠忍するが、頼忠は実直な人がらで、兼家と衝突することもなく、兼家もやがて右大臣に昇る。
そのうえ、兼家は後宮関係は抜群の幸運児で、娘のうち、冷泉上皇に進めた女御超子(ちようし)には既に居貞(いやさだ)・為尊(ためたか)・敦道(あつみち)という三親王が生まれ、円融天皇に入れた女御詮子(せんし)には懐仁(かねひと)親王が生まれていた。
兼通も頼忠も、娘を後宮に送り込んでいたが、皇子を得たのは兼家だけだった。
頼忠:
父実頼と同様に温厚実直な人柄だったという。
摂関家主流ではめずらしく天暦10年(956)権左中弁以来、応和3年(963)からは参議で大弁を兼ね、安和元年(968)まで12年間弁官局にあった。地方統制など太政官政務に精通し、陣定(じんのさだめ)とくに受領功過定(ずりようこうかさだめ)を「朝の要事」だと述べたことが、子の公任の『北山抄(ほくざんしよう)』に伝えられている。
このように、
円融天皇の時、元服後も兼通ー頼忠と続けて関白に補任されたことが、天皇が元服するまでは摂政、元服後は関白を置くという摂関常置への道筋をかためたと言える。
安和の変によって賜姓源氏の政治力が失われ、天皇の外戚として、元服後も生涯にわたり補佐をつづける「摂関」が政治システムの中に組み込まれ、代々その地位を受けつぐ「摂関家」が確立した。
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