2012年9月3日月曜日

1754年(宝暦4) ジョモンヴィル事件 郡上藩一揆 【モーツアルト-2歳】

東京 北の丸公園 2012-08-30
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1754年(宝暦4)
7月3日
・北米、ヴァージニア総督ディンウィッディーに派遣されたジョージ・ワシントン大佐(21)率いる民兵隊150人、フランス・インディアン連合軍の攻撃の前にフォートネセシティーを放棄。
フランス人、オハイオ全域を掌握。
ワシントン、ヴァージニアに帰る事が許される前に、騙されて、偵察隊指揮官を「暗殺した」という自白書(フランス語で書いたもの)にサイン。

「ジョモンヴィル事件」:
ワシントンはド・ジョモンヴィル中尉率いるフランス軍分隊と遭遇。手兵のイロクォイ族がフランス軍を襲い、指揮官含む7人が死亡。フランス軍は大規模な報復を行う。

北米では60年までの6年間、ヨーロッパでは56年~63年「7年戦争」と称される。
「アメリカで発射された大砲は、やがてヨーロッパを一面の砲火につつむ合図となるだろう」(ヴォルテール)。
「アメリカの辺境森林地帯で、ヴァージニアの一青年が命じた一斉射撃が、世界に火を放った」(ホレス・ウォルポール「ジョージ二世統治史」)。

この時点でのフランス軍の勢力は、セントローレンス川河口からカナダ内陸に広がり、五大湖を下ってミシシッピ川沿いにニューオーリンズまで。
戦争は、1759年ケベック陥落。1763年パリ条約で終結。
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7月20日
・郡上藩一揆(~1758(宝暦8)年)。

藩が、「定免相願候村方は吟味の上三箇年又は五箇年の年季を限り相当の増免等を以て被仰付」(宝暦五年申渡書)という公儀の方式と比較して、「五十余年以来定免に相成居候と申儀は畢竟地方役人未熟之取斗」(同前)と断じ、「永定免」から豊凶によって取筒をきめる「立毛見立免」へ移行しようとしたことに対する闘争。
藩主家の改易から幕閣人事の変動まで引き起こす。
一般に、18世紀後半期以降、永(永久)定免制から検見制或いは増米年季定免制へ移行させることで増徴の成果をあげようとする領主権力に対して、永定免制維持を要求する一揆が闘われる。
郡上藩、かねてよりの財政逼迫に加え、1747年、藩主金森頼錦が幕府の奏者番となり、財政は一層窮迫。
藩は勘定奉行大橋近江守に税法改正承諾を得て年貢の税率を定免法(定額制)から米の収穫高により年貢額を決める検見法(累進課税)に変えようとする。
更に、村々の隠し田にも年貢をつけて税収増大を狙う。このために黒崎左一右衛門という検地の専門家を召抱える。

この日、郡上藩(藩主金森頼錦(よりかね))、各村庄屋を藩役所に呼び出し検見法への税制変更を伝える。藩通達に対し村々で相談、納得できないとの結論に達し、その旨署名捺印して百姓から庄屋へ差し出すことにする。

8月2日、郡内121ヶ村の庄屋や主だった農民は中桐村(八幡町初音)の南宮神社に集合、傘連判状を作成し団結を誓う。

一方、3日、4日、庄屋達は郡奉行宅に行き検見法差し止めの交渉開始するが、拒否され、この時点で庄屋は増税反対運動から手を引く。反対運動は農民達だけで続行。

10日、農民約1千、八幡城下御蔵会所に集合、検見法実施の廃止願いとその他16項目についての嘆願書提出。驚いた家老たちはやむを得ずこの要求をのみ、家老3人連名の免状を発行。農民たちは反対運動の成功に八幡の城下をねり歩く。

また、9月9日、南宮神社にお礼参りに行く。
しかし、検見法以外に財政再建の道のない藩側は新たな画策に動く。
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7月31日
・フランス、ボン=アドリエン・ジャンノ・ ド・モンセイ(後、ナポレオンの元帥)、ブルゴーニュ地方ドゥー県で誕生。中流家庭の貴族、ブザンソン市地方議会法律事務官の家庭。
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8月23日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間に第3男ベリー公ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)、誕生。
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9月
・[露暦9月]エカテリーナがパーヴェルを出産
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10月
・米、ジョージ・ワシントン、辞任。
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・「百科全書」第4巻出版。ルソー「協和音」「不協和音」など執筆。ラモーを批判。
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10月1日
・オーストリア、マリア・テレジアの関税令。
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11月12日
・幕府、翌年より貞享暦を廃し、新暦の寶暦甲戌(ほうりゃくこうじゅつ)暦の使用決定。
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