2012年9月4日火曜日

元亀2年(1571)9月 信長の比叡山焼き討ち 「講堂以下諸堂放火、僧俗男女三、四千人伐り捨つ。」 [信長38歳]

東京 北の丸公園
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元亀2年(1571)
9月
・上杉謙信、再び越中出陣、一揆勢の立て篭もる滝山城を焼き払う。
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・上京したオルガンチーノ・ソルド神父、フロイスと共に信長に謁見。
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9~10月、信長、米の徴発と強制的高利貸付け政策実施
朝廷復興、京の町衆組織の改造という戦略構想。

①洛中洛外の領主・地主に田畠1反につき1升の米を拠出(520名)。
②京の町ごとに5石の米を3割に利付きで強制的に貸付(上京84町に305石、下京43町に215石)。③利息米(13石/月)は公武御用(将軍・天皇の財源)に充てる。
④惣町を仕切る町衆(豪商)に責任と負担を押付け、御倉職立入宗継(天皇家の財政担当、高利貸)が統轄。
(参考)
京都市歴史資料館 特別展「禁裏御倉職立入家の人びと」
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・トスカナ大公フランチェスコ・デ・メディチ、側室ビアンカの夫ピエトロの父ゼノビオ・ブオナヴェンチュリを貴族にする。
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・スコットランド、摂政4代レノックス伯マシュー・ステュワート(ダーンリー卿父、国王ジェイムズ6世祖父)、スターリングで暗殺。マー伯ジョン・アースキンが摂政就任。実権は4代モートン伯ジェイムズ・ダグラス(6代アンガス伯弟)が握る。
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9月1日
・丹羽長秀・佐久間信盛・柴田勝家・中川重政、志村城(志村資則、神崎郡能登川町)攻略。首級670(皆殺し)。小川城主小川孫一郎は無抵抗で降伏。小川・志村とも六角氏没落後、浅井に通じて信長に反抗。
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9月1日
・毛利元清の先手(三村元親と兄・猿掛城主穂田元祐)、浦上宗景方佐井田城を攻撃。
2日、浦上・宇喜多の援軍、佐井田城入城。
4日、浦上・宇喜多勢、包囲する毛利勢へ佐井田城より撃ってでる。穂田元祐、戦死。毛利勢力、敗退。
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9月2日
・筒井順慶、辰市城築城。
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9月2日
・この日付、明智光秀の書状。雄琴の土豪和田・八木両名の帰参に対する礼状。

湖東志村城の陥落、長光寺城への全軍集結など、かねて光秀が仰木谷の軍事にあたっており(「言継卿記」前年9月26日条)、比叡山焼打ちにおける光秀の役割
信長は、近江進撃当初より延暦寺殲滅を企図していた事実が判明。
光秀を中心とする織田軍団は早くから山麓方面の攻め口を分担して考究し、周辺の上豪の離脱工作に従事し、織田主力の到着を待っていたという状況。

「猶以て鉄炮の玉薬一箱参り候。筒の事ハ路次心元無く候て進(マイラ)せず候。八木帰られ候時遣わすべく候。返々(カエスガエス)愛宕権現へ今度の忠節、我等に対し候てハ無比の次第に候。入城の面々よく名を書き記して来らるべく候。又堅田よりの加勢の衆、両人衆の親類衆たるべく候か。左(サ)候とも此方への忠節浅からざる由、よく申し届けらるべく候。又此(コノ)事加勢の事、三人の内ニ一人つゝ人数を副へ、かわりかわりこ置くべく候間、その分別簡用(要)ニ候。万々目出度さ推量あるべく候。八木に対面候て満足書中二申し得ず候。以上。」。

「御折帋(オリガミ)拝閲せしめ候。当城へ人らるゝの由尤に候。誠に今度城内の働、古今あるまじき儀に候。八木方ニ蓬ひ候て感涙を流し候。両人覚悟を以て大慶面目を施す迄に候、加勢の儀是又両人の好次第ニ入れ置くべく候。鉄炮の筒并びに玉薬の事、勿論入れ置くべく候。今度の様躰、皆々両人を疑ひ候て後巻等も遅々の由候。是非無き次第に候。人質を出候上にて物疑ひを仕り候へハ、報果次第に候。石監・恩上ハ罷り上り候時も、疑ひの事をハ止められ候への由再三申し旧(フ)り候いつる。案の如く別儀無く候て、我等申し候通り逢ひ候て一入(ヒトシオ)満足し候。次で幼き者の(人質の子息)事、各登城の次(ツイデ)ニ同道し候て上らるべく候。その間八木は此方に逗留たるべく候。弓矢八幡日本国大小神祇我々疑ひ申すに非ず候。皆々口々ニ何けつ歟と申し候間、その口を塞ぎたく候。是非共両人へハ恩掌(賞)の地遣はすべく候。望みの事、きかれ候て越さるべく候。仰木(大津市)の事ハ是非ともなでぎりニ仕るべく候。頓(ヤガ)て本意たるべく候。また只今朽木左兵衛尉殿、向より越され候。昨日志村の城(神崎郡能登川町)□□(磨損)ひしころし(干殺)ニさせられ候由候。雨やミ次第、長光寺(近江八幡市)へ御越し候て惣人数□□(恐々)謹言。 (元亀二年)九月二日 明十兵 光秀(花押) 和源(和田秀純)殿」。
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9月3日
・信長、佐和山城から常楽寺(滋賀県甲賀郡石部町西寺)移動。
江南の一向一揆の拠点金ヶ森城(守山町金森町)攻略。石山本願寺より派遣された有力門徒川那辺秀政、降参。
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9月4日
・松永久秀、信貴山城進発。三好義継勢と合わせ1万、筒井勢6千と大安寺堤で決戦。松永勢、敗北、有能な部下を多く失う。
6日、松永勢十市衆の森屋城、筒井順慶方箸尾高春により陥落。
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9月11日
比叡山焼き討ち
信長、瀬田城下着。園城寺(三井寺)光浄院。翌日の比叡山攻め宣言。坂本へ移動。佐久間信盛・武井夕庵が諫言。信長、比叡山が警告を無視したために討伐すると佐久間らを説得。
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9月12日
・朝、信長軍3万、坂本を放火。西塔・横川への登り道封鎖。日吉大社焼き討ち。15日迄の4日間。
根本中堂・大講堂・阿弥陀堂・戒壇院・護持院など焼き尽す。
日吉大社奥宮に逃げこんだ山下の老若男女も四方より社内に乱入し殺戮。
死者は女子供をも含み3千~4千(「言継卿記」)。「年代記抄節」では1,600。
焼き討ち後、明智光秀は滋賀郡を与えられ坂本に城を置く。
延暦寺・日吉神社の寺領・社領は江南の部将たち(明智光秀・佐久間信盛・柴田勝家・中川重政)に与えられ、彼らは近江支配体制を整える。

近江を中心に広がる延暦寺寺領は信長の領域支配の大きな障害。
また、延暦寺が支配する坂本を掌握し琵琶湖の海運権を掌握する狙い。
京の町の中世的なりたち(京の町に食い込んだ山門の流通経済特権)の解体。

朝倉義景は直ちに坂本の日吉社復興に協力し、越前国中の諸商売人に役銭を賦課して新寄進を行う。

この頃 「僧衆はおおむね坂本に下りて」(『多聞院日記』元亀元年三月十九日条)生活をしていたため、焼き討ちは「上坂本」攻撃から始められる。
その後、大衆が山上へ逃げることを決め、それにあわせて坂本の町人たちも山上へ避難し全山焼き討ちに繋がったと考えられる。

「ことごとく山頂の堂に集まることに決し、坂本の町民らもまた坊主らの勧告によりて、妻子らとともに山に登りたり、信長は一同が山頂にあることを知り、坂本の町に火を放たしめ、そのなかにあるものをことごとく殺数せしめたり」(『耶蘇会士日本通信』)と伝えられている。

大衆側は、
「信長の神仏を崇敬すること薄きを知りたるも、偶像山王はすこぶる尊崇せられ、その罰も畏怖せらるるゆえに、これを破壊することなかるべし」(『耶蘇会士日本通信』)との甘い認識を持ち、また、信長の軍勢が近づいてきたこと知った大衆は、「これを聞き、ほかに手段なきをみて、黄金の判金三百を贈りたり、おのおの銀四百五十匁の価あるものなり」(『耶蘇会士日本通信』)と、金銭で解決できると考えていたようだ。

しかし、
「信長はごうもこれを受納せず、彼の来たりしは黄金の富を得んがためにあらず、厳重に彼らの罪を罰せんがためなりと言明せり」(『耶蘇会士日本通信』)。

山科言継の記録。
織田弾正忠、暁天より上坂下(本)を破られ放火、次いで日吉社残らず、山上の東塔・西塔・無童子(動寺)残らず放火。山衆悉く討死すと云々。大宮辺・八王子両所これを持つ。数度軍これあり。悉く討ち取る。講堂以下諸堂放火、僧俗男女三、四千人伐り捨つ。堅田等も放火す。仏法破滅、不可説々々々(説くべからず説くべからず)。王法は如何あるべき事哉。大講堂・中堂・谷々の伽藍一宇を残さず放火すと云々。」(「言継卿記」12日条)。
「織田弾正忠、叡山横川・ワウギ(仰木)・ミナ上・その辺東塔の焼け残り等、悉くこれを放火す。」(同13日条)。
「山上残りの坊、今日も放火」(同15日条)

「元亀元年九月十二日、叡山へ御取り懸く。・・・山門・山下の僧衆王城の鎮守たりと雖も、行体行法、出家の作法にも拘らず天下の嘲弄をも恥じ、天道の恐れをも顧みず、淫乱、魚鳥を服用せしめ、金銀賄に耽りて、浅井・朝倉に贔負せしめ、恣に相働くの条、世に随ひ、時習に随ひ、まず、御遠慮を加へられ、御無事に属せられ、御無念ながら、御馬を納められ候べき。御憤を散ぜらるべきために候。 九月十二日叡山を取詰、根本中堂三王廿一社を初奉り、霊仏霊社、僧坊経巻、一宇も残さず、時に雲霞の如く焼払灰燼の地となるこそ哀なれ。山下の男女老若、右往左往癈忘致し、取る物も取り敢へず、悉く、かちはだしにて、八王寺山へ逃げ上り、社内へ逃げ篭る。諸卒四方より鬨音を上げて攻め上る。僧俗・児童・智者・上人、一々に頚をきり、信長の御目に懸くる。是れは山頭において其の隠れなき高僧貴僧有智之僧の申、其外美女童其の員知れず召捕御前に召つれ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、是は御扶け成され候へと声々に申上候といへども、中々御許容なく、一々に頚を打落され、目も当られぬ有様也。数千の屍、算を乱し、哀れなる仕合也。年来の御胸矇を散ぜられ訖んぬ」(「信長公記」)。
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9月12日
・フランス、コリニー提督、シャルル9世と和解、顧問会議復帰。シャルル9世への影響強まる。コリニーの影響で宮廷内にネーデルランド新教派支援気運高まる(カトリーヌは反対)。

フィレンツェのコジモ大公、教皇より大公称号与えられるが、スペイン王フェリペ2世とハプスブルクが大公称号の認知拒否。コジモ大公 、これを恨みシャルル9世にフェリペ2世とハプスブルクとの戦い (「トスカナ同盟」)を持ちかける。
スペインと戦っているネーデルランド新教徒は賛成(オラニエ公弟ルートヴィヒ・フォン・ナッサウ、フランス宮廷に赴きシャルル9世に工作)。
フランスのユグノーが「トスカナ同盟」に積極的。シャルル9世、母カトリーヌと相談せずに「トスカナ同盟」承諾。「トスカナ同盟」成立後、コジモ大公が恐怖心を抱き「トスカナ同盟」はご破算。
シャルル9世、スペインとの「戦争」にこだわる(コリニー、ルートヴィヒ・フォン・ナッサウを重用。母カトリーヌを除外)。
ギーズ一族、宮廷への伺候を拒否。
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9月13日
・信長、午前10時入京、妙覚寺入り。
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9月15日
・武田勢、北武蔵にて北條氏邦と戦う
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9月16日
・正三位大膳太夫竹内季治、信長に捕縛。
岐阜へ護送中、18日、永原城で成敗。
「信長は極みに達したため、後は熟した無花果のように地上に落ちるだけだ」と発言したため。
季治はフロイスの京都復帰に激しく反対。
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9月18日
・信長、京都発。19日、佐和山城で一泊。20日、岐阜着。
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9月19日
・信長を送った後、丹羽長秀・河尻秀隆、近江犬上郡土豪一向一揆頭領高宮右京亮と一党謀殺。野田・福島陣の際、一揆を扇動し、天満の森陣地から石山入りしたため。(「信長公記」では21日)
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9月22日
・松永久秀被官の竹内秀勝、河内国若江に於いて没。
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9月23日
・武藤(真田)昌幸、上野白井城を攻める
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9月24日
・明智光秀、幕府衆と共に摂津に出陣。幕府奉公衆一色藤長・一色昭秀・上野中務大輔らが出陣。
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9月25日
・信長、上杉謙信へ鷹を贈られた礼状を認める。
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9月26日
・武田信玄の将軍義昭側近一色藤長宛て書状。
信濃の御料所が退転しているとのことなので1ヶ所を進献する、本願寺・信長和睦斡旋は下知した、謙信と和睦せよとの仰せなので意趣は使者に伝えたと通知
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