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「二十三 「つゆのあとさき」のころ」(その3)
「つゆのあとさき」の君江の勤める「ドンフワン」の場所は、「松屋呉服店から二三軒京橋の方へ寄ったところ」で、その周辺は、「同じやうなカツフヱーばかり続いてゐて」、うっかりすると店を間違えて入りそうなカフェーの集中地。
君江が数寄屋橋のたもとで出会った松子という顔見知りの女給が、これから「五丁目のレーニン」という酒場に行くといっているのも時代を感じさせる。革命家の名前が平気でカフェーの名前になっている。モダン都市文化の爛熟といえようか。
「松屋呉服店」は現在の松屋デパート。
神田今川橋にあった松屋呉服店が銀座に進出したのは、震災の翌年。上野の松坂屋が銀座に支店を出したのも同じ年。
さらに震災後の帝都復興祭が行なわれた昭和5年には、日本橋の三越が尾張町(現在の四丁目)の角に銀座店を設け、「つゆのあとさき」が書かれた昭和6年には、松屋、松坂屋、三越の三つのデパートが出そろったことになる。
「ドンフワン」の客の描写に、「客は二人とも髭を生した五十前後の紳士で、松屋か三越あたりの帰りらしく、買物の紙包を携へ」とあるのは、デパートの銀座進出の状況を語っている。
資生堂の四階建ての新しいビルが出来たのも、伊東屋の八階建ての新しいビルが出来たのも昭和5年。
また、東京市が十五区から三十五区へと郊外へ発展拡大する市区改正が行なわれた昭和7年には、銀座の象徴になる服部時計店(現・和光)のビルが完成する。
寺田寅彦のいう「銀座アルプス」である。
「つゆのあとさき」を書いた昭和6年は、銀座がほぼ現在の町並みを決定した年。
「荷風は、この新しく出現したモダン都市に愛情を感じている。江戸の良さが破壊されたあとに生まれた”光と音”の町を、荷風は明らかに愛している。」(川本)
「今日の銀座は恰余が二三十年前に見たりし米国新開の都市のさまに異らず。将来に在りても亦永くかくの如くなるべし。欧洲諸国の古き都会の雅致ある趣は到底わが国には見る事能ざるべし」(昭和7年9月11日)と、銀座の浅薄さに苦言を呈しながらも、
他方では、
「燈刻出でゝ銀座に飯す。陰暦十月十五夜の月鏡の如し」(昭和8年12月2日)、
「十六夜の月服部時計店の屋根上に照輝きたり」(昭和8年12月3日)と、
木造家屋と月の風景ではなく、ビルと月の新しい都市風景を賞讃。
荷風のなかで、モダン都市銀座がくっきりと美しい形を作っていっている。
「銀座邊の景気最盛なりしは昭和六年より翌七年」(昭和9年11月4日)とあるように、「つゆのあとさき」が書かれた昭和6年は、銀座がもっともにぎわった時である。
荷風は、そのなかにモダンガール君江を置いた。
君江の勤める「ドンフワン」
君江は、数寄屋橋のたもとで会った、池之端のカフェー時代の同僚に「(ドンフワンでは女給は)六十人で、三十人づゝ二組になってゐるのよ。掃除はテーブルも何も彼も男の人がするから、それだけ他よりも樂だわ」といっている。「銀座では屈指のカツフヱーに数へられてゐる」。
オーナーは、池田という「五十年配の歯の出た貧相な男」で、「震災當時、南米の植民地から掃って来て、多年の蓄財を資本にして東京大阪神戸の三都にカツフヱーを開き、まづ今のところでは相應に利益を得てゐるといふ噂である」
「南米の植民地」はブラジルで、ブラジルで成功した男が、日本に戻り、東京人阪神戸でカフェーを開いている。
ブラジル移民船の監督助手だった石川達三は、このころ、ブラジルから帰り銀座のダンスホールでダンス教師となり、そのかたわら書いた「蒼茫」で昭和10年に第一回芥川賞を受賞する。
銀座の町名が改められ、銀座通りが一丁目から八丁目に延びたのが、昭和五年。銀座八丁の誕生である。
武田麟太郎はこれを受けて、昭和九年に「東京朝日新聞」に「銀座八丁」を連載する。銀座のカフェーで働く女たちの物語である。当時の銀座はカフェーを中心とした村のような世界だったという。(ちなみに、武田麟太郎は「カフェー」ではなく、「酒場」「バア」と書いている)。
さらにそこには、「服部の時計塔が、銀座一帯を見下しながら、怪奇な響きを立てて一時を報じた」あとにもなお、酔客たちでにぎわう銀座通りの、六十年後の今日とさほど変らない混雑ぶりが描かれている。
荷風が「つゆのあとさき」を発表した昭和六年という年は、まさに銀座がこうした今日の原型を作った年だった。
絶好のタイミングであり、都市文学者としての荷風の勘の良さは抜群である。
君江は、市ヶ谷本村町のアパートで一人で暮し、そこから「乗合自動車」(バス)で銀座へ出勤。
現在の銀座のホステスとほとんど変らない生活様式である。
「乗合自動車」は、東京では大正八年に開業。震災で市電の線路がずたずたに破壊されたあとに急速に東京市民の足として発達。
数寄屋橋あたりを歩く描写。
「君江は(省線の)ガード下を通りぬけて、数寄屋橋のたもとへ来かゝると、朝日新聞社を始め、をちこちの高い屋根の上から廣告の軽気球があがつてゐるので、立留る気もなく立留って空を見上げた時、後から君江さんと呼びながら馳け寄る草履の音」
「(省線の)ガード下」は、有楽町の高架線の下。「朝日新聞柾」は、昭和2年に建てられた新しい建物。
陣内秀信『東京の空間人類学』(筑摩書房、1985年)によれば、「水辺に必然的に生まれる変則的な敷地を逆にうまく生かして、独特の建築形態をとっていた」「水に浮かぶ商船の姿をほうふつとさせるデザイン」の建物。
「廣告の軽気球」は、「アドバルーン」のこと、このころから銀座の都市風景を彩るようになっている(広告の時代の始まり)。
昭和6年5月、平凡社『江戸川乱歩全集』刊行のときには、新宿のビルの屋上にアドバルーンを揚げて大々的に宣伝した。
昭和11年には、「空にゃ今日もアドバルーン さぞかし会社で今頃は お忙しいと思うたに ああそれなのにそれなのに ねえ 怒るのは 怒るのは あったりまえでしょう」の「ああそれなのに」(日活映画『うちの女房にゃ髭がある』の主題歌。サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、美ち奴唄)が50万枚を超える大ヒット曲になる。「アドバルーン」は新しい都市風景になっている。荷風はそれを見逃さず「つゆのあとさき」のなかに書きこむ。
「荷風がモダン都市の作家だというのはこういうディテイルの確かさのためである。国家や政治や人生論といった大言壮語は一切しない。ただ都市のディテイルに目を向ける。」(川本)
(つづく)
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