東京 北の丸公園 2012-11-09
*1763年(宝暦13)
5月5日
・小林一茶、誕生。
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5月7日
・北米、ポンティアック戦争。
デトロイトのオッタワ族酋長ポンティアックに指導されたアルゴンクイン族の反乱。
以前はフランスと同盟、イギリスの征服後、横暴に耐えかねて反乱。
デトロイト攻撃。暴動はナイアガラからヴァージニア全域に及ぶ。4年間。
イギリスは国王宣言線を設定し、アパラチア山脈以西への入植を禁止。
土地を求める植民地人の激しい反発を呼ぶ。
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5月7日
・ユーゼフ=アントニ・ポニャトフスキ(後、ナポレオンの元帥)、ウィーンで誕生。ポーランド最後の国王スタニスワウ2世アウグストス・ポニャトフスキの甥。
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5月19日
・アウクスブルクのインテリゲンツ・ツェッテル紙、「11歳の少女(ナンネル)が難しいソナタや協奏曲をいとも容易に最高の趣味でやってのけること。さらに驚くべきことに6歳の少年が非の打ち所なく一人前の成人のようにやってのけ、鍵盤にハンカチをかぶせたままで正確に演奏もできること」など、驚嘆すべきニュースを伝える。
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5月21日
・フランス、ジョゼフ・フーシェ(政治家・警察大臣)、ロワール県で誕生。
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5月25日
・ノルウェー、初の週刊新聞が発行。デンマーク語
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5月25日
・本居宣長(34)、松坂で江戸の国学者加茂真淵と会う。
佐佐木信綱の名文で小学校国語読本に集録される「松阪の一夜」。
この年の暮、宣長は正式に真淵門弟となり、教えを乞い「古事記伝」完成へ向かう。
「宣長三十あまりなりしほど、縣居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釋を物せむのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは」(「玉勝間」巻2「あがたゐのうしの御さとし言」)。
この年、『石上私淑言(いそのかみのささめごと』を著わす。
彼はその中で、儒教的な類型的な人間像を否定しながら、「物のあはれを知る」主情的な人間性を強調。
宣長は、人間の心の感受性の強さを論じ、ものにふれて動く人間の感情というものを、あるがままに肯定していたのである。
「うごくとはある時はうれしく、ある時は悲しく、又ははらだたしく、又はよろこばしく、或は楽しくおもしろく、或はおそろしくうれほしく、或はうつくしく、或はにくましく、或は恋しく、或はいとほしく、さまざまに思ふ事ある、是即物のあはれを知る故にうごくなり」
こうした感情の動きをみつめる豊かな人間性が、かれの文芸論の中心となるが、そのことは同時に、相手の心になってその立場を考えてやるという深い同情ともなっていた。
身分や格式においてそれを考えるのではない。それを「人の真心」において考え、「実の情」によって理解してやる。
そこで初めて、「富める人は貧しき人の心を知らず、わかき人は老たる人の心を知らず、男は女の心を知らず」といったような、「よろずに思ひやりなくして、心こわごわしくなさけなき事のみ多き」社会の人間関係が否定され、新しい市民的な人間の関係が成立してくる。
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6月~10月
・モーツアルト、(K.5b)ピアノのためのアンダンテ(変ロ長調、断片)。
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6月9日
・モーツアルト、ヨーロッパ中心地への旅、西方大旅行(1763年6月9日~1766年11月29日)
モーツアルト一家、西方大旅行。
従僕のセバズティアン・ヴィンターを伴い、パリ、ロンドンへ(3年半、その間、各地の王侯・貴族の前で神童ぶりを発揮。姉とともにチブスにかかるが、一命を取り留める)。
レオポルトが故郷ザルツブルクの家主ハーゲナウアーに宛てた手紙によると、9日、ザルツブルク~ミュンへンの中間のヴァッサーブルクの手前で、旅行用の馬車の後輪がバラバラに壊れ、近くの水車小屋から有り合わせの車輪で応急手当てをし、大変な目にあったと報告されている。
夜半過ぎ、一家はヴァッサーブルクに到着。
翌朝、レオボルトは気晴らしの為ヴォルフガングを教会に連れて行き、オルガンのペダルの踏み方を教える。ヴォルフガングは早速これを覚える。
ハーゲナウアー宛てレオボルトの初信の冒頭。
「カタツムリのようなのろのろ旅をしています!」(1763年6月11日付)。
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6月12日
・夜、モーツアルト一家、ミュンヘン到着。「ツム・ゴールデネン・ヒルヒェン(金鹿館)」(テアティナー・シュトラーセ(現シュヴァービンガー・シュトラーセ51番地))に宿をとる。
6月13日
・モーツアルト(7)、離宮ニュンフェンブルクに伺候、夜(夜8時~11時)、大音楽会開催、クラヴィーアとヴァイオリンを演奏。
19日にもモーツアルトの御前演奏。
ミュンヒェン滞在中に、エステルハージー侯に仕えコンツェルトマイスターの地位にあるヴァイオリン奏者ルイージ・トマジーニ(1741~1808)に出会う。
「長いこと待たされ」た末ではあるが、21日、選帝侯から100フロリーン、その従兄弟バイエルン公クレメンス・フランツ・デ・パゥラより75フロリーンの報酬、クレメンス公からプファルツ選帝侯カール・テオドール宛てた紹介状などを得る。
■ナンネルルの旅日記。
「ミュンヒェンで、私はニュンフェンブルクのお城とお庭と四つの御殿、つまりアマーリエンブルク、バーデンブルクにエルミタージュを見ました。アマーリエンブルクがいちばん綺麗で、なかには立派な寝台があり、また選帝侯の奥方がご自分でお料理なさった台所があります。バーデンブルクがいちばん大きくて、ここには綺麗な鏡張りの広間があり、浴場は大理石でできています。パゴーデンブルクは一番小さくて、壁はマジョリカ焼です。エルミタージュは一番住み心地がよくて、小礼拝堂は貝殻でできています。」
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6月22日
・幕府、大名へ生涯に一度は正室を迎えるよう触れをだす
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6月22日
・モーツアルト一家、ミュンヘン出発。
夕方、アウグスブルク(レオポルトの生まれ故郷)到着。
28日、モーツアルト姉弟の公開演奏会。30日、7月4日にも。
のちになおモーツァルトと関係を深めるクラヴィーア製造家ヨハン・アンドレーアス・シュタイン(1728~92)の許で、旅行用の楽器を購入。
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6月23日
・マリー・ジョゼフィーヌ・ローズ・タシェール、フランス領マルティニック島トロワ・イレに誕生(後のナポレオン1世皇后)。
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7月
・平賀源内、「物類品隲」を刊行。
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7月
・今治藩、各河川の河道付け替え工事を完了。
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7月4日
・アウグスブルク、モーツアルト姉弟の公開演奏会。ヴァイオリン奏者ピエトロ・ナルディーニと知り合う。
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7月6日
・モーツアルト一家、ウルム到着。「ツム・ゴールデネン・ラート(金輪館)」宿泊。大聖堂を訪問し、大オルガンに触れる。ヴェンゲン修道院も訪問。
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7月8日
・鳥取の町人、藩の発行した銀札の正銀引き替え滞りを訴えるため、町奉行宅へ押しかける。
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7月9日
・夕方、モーツアルト一家、ルートヴィヒスブルク(シュトゥットガルトを本拠地とするヴュルテンベルク大公カール2世オイゲーンの離宮がある)到着。
12日朝、ルートヴィヒスブルク出発。ブルフザール泊
ここでは御前演奏の機会には恵まれなかった。
ナンネルの旅日記には「ルートヴィヒスブルクではお城と広間、それに衛兵整列」と記されている。
この地でレオポルトが知ったこと。
①ヴュルテンプルク侯領ルートヴィヒスブルクは「まことに美しい土地」であるが、軍隊に満ち溢れ、「なかでも兵士たちが町の城壁」となっている。フーベルトゥスブルクの和約によって7年戦争が終結したばかりの動乱の影響。
②当地の楽長ニッコロ・ヨメッリ(1714~74)に「公の愛顧が最高度に与えられており」、「自分の楽団に対する無際限の権能」(1763年7月11日付手紙)がある。この当時のイタリア人音楽家のドイツ各地における活躍ぶり。
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7月14日
・モーツアルト、シュヴェッツィンゲン(プファルツ選帝侯カール・テオドールら宮廷の夏の居住地)到着。
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7月16日
・煎茶を広めた禅僧、売茶翁(89)没。
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7月18日
・午後5時~9時、選帝候カール・テオドールの夏の居城シュヴェツィンゲン城で音楽会。モーツァルトとナンネルが演奏。
モーツァルト一家は、オーケストラ楽長クリスティアン・カンナビッヒ、フルート奏者ヨーハン・バブティスト・ヴェンドリンク(1723~97)、その弟ヴァイオリニストのフランツ・アントン・ヴェンドリンク、ファゴット奏者ハインリッヒ・リッター等と知り合う。
これらの人々とは今後長く親交を深め、モーツァルトは彼等のために作曲している。
レオポルトの注意を惹いたこと。
①当地のオーケストラのメンバは、「異論なくドイツ最良のもの」(1763年7月19日)で、「若い人たちだけ、それにまったく品行方正な人たちだけで成っていて、酔っぱらいもいなければ、賭けごとをやるものもいないし、ふしだらなやくざ者もいない」という状態。
②プファルツ選帝侯領ではカトリック、ルター派、カルヴァン派、ユダヤ教の4宗教が併存。
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7月29日
・医師田村玄雄(30人扶持小普請組)、命により上野下野奥州を巡回、野生人参を探す。
「次に人参座については、宝暦十三(一七六三)年に医者の田村玄雄が召出されて、三十人扶持を賜わって官医の格に準じて、小普請組に入れられて、朝鮮人参の事を宰らしめられた。この玄雄は本草学に長じ、ひろく諸国を跋渉(ばつしよう)して、薬剤を広く求めて著述も少からぬという事で、今度召出されたのである。同年七月二十九日には玄雄は命を承けて、上野・下野・奥州等に巡回をして、野生の人参を求め探した。同年八月十九日には広東人参の売買を禁じた。明和元〔一七六四〕年閏十二月から、人参座即ち人参専売局を置いて、幕府の発売を司る事にした。これは八代将軍の時に、貧民が人参を求難い事を憐まれて朝鮮から種子を取って、下野国に植え試みた事がある。近頃になって、その結果が好くて、出来栄が朝鮮の産にも劣らなかった。すなわち陸奥国にも植えしめたところ、近頃追々それが蕃殖したので、今度神田の紺屋町に、人参発売の座を作って、望み乞う者に定価を以て売るという事にして、関東八州はさらなり他の国までも広く流通せしむる。シナ広東人参という物は、古くから日本にはいっているけれどもこれは余り良くないからして、今後これの発売を禁ずるという事にした。この禁令を出す前に長崎において広東人参三万両を焼棄てたという。明和四〔一七六七〕年には人参に上中下の品を分って、それに印を付けて、品種の別を定め、上中の品には印を付け、下の物には印を付けず、国々商人二十八人を定めて、この発売を許された。これによって貧困なる病者を救う事を得たが、一方には、この人参の発売をするところの商人の手代どもが、国々に行って御上の威光を仮りて、強いて売付けることになったので、明和八(一七七一)年にはその手代どもが罰せられた事がある。」(辻善之助『田沼時代』)
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7月下旬
・モーツアルト一家、ハイデルベルク→宮廷所在地マンハイム。
ハイデルベルクで、ヴォルフガングは聖霊教会のオルガンを演奏し、居合わせた人たちを驚かせ、首席司祭はオルガンにこの記念すべき演奏の次第を記させる。
ハイデルベルク行きの目的は、「お城とそれに大酒樽を見るため」であった。
マンハイム滞在中(3日間)に楽長イグナーツ・ヤーコプ・ホルツバウアー(1711~83)と知り合う。
宮殿、宝物庫、図書館、オペラ劇場などを観覧。
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