2013年9月16日月曜日

昭和18年(1943)1月8日~20日 カサブランカ米英首脳・参謀会議 ガダルカナル撤退命令 「行動不如意ニアル将兵ニ対シテハ皇国伝統ノ武士道的道義ヲ以テ万遺憾ナキヲ期スルコト」

北の丸公園 2013-09-13
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昭和18年(1943)
1月8日
・第五戦区の軍長呉化文、日本軍に帰順
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1月8日
・第8連合特別陸戦隊(八連特)、この日より順次、ニュージョージア、コロンバンガラ両島に進出。
2月初旬、布陣。
前年12月初より、ニュージョージア島ムンダでは、先遣の第22設営隊、第10野戦飛行場設定隊などが飛行場建設を始めるが、米軍の空襲による作業妨害が激しく、人員・機材の損害が続出。
第8艦隊は、対空火器を持つ八連特を両島に派遣。
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1月8日
・北アフリカ、自由フランス軍、ムルズク、セブハ攻略
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1月8日
・ソ連、スターリングラード独第6軍に降伏勧告、パウルス元帥の受入要請をヒトラーは拒否。
24日、再勧告、再要請、再拒否
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1月8日
・スペイン、国家元首法布告。
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1月9日
・汪兆銘の南京国民政府、英・米に宣戦布告
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1月9日
・汪兆銘の南京政府と日華協定に調印。戦争完遂共同宣言、租界還付・治外法権撤廃
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1月9日
・ソ連『コリチョー(輪)』作戦(スターリングラードの第6軍の殲滅作戦)
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1月9日
・イギリス軍、イラン進駐。
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1月10日
・ユーゴでドイツ軍とパルチザンが激戦。
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1月11日
・中国国民政府、英・米と協定締結、在華特権(治外法権)放棄(ワシントン・重慶)。
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1月11日
・ビルマ派遣軍司令官飯田祥二郎中将、第55師団長古閑健中将に第1次アキャブ作戦(第31号作戦)下命。
「第五十五師団長は第三十三師団の宮脇支隊を合わせて指揮し、アキャブ方面に反攻する敵を撃滅し、プチドン、モンドウの敵策源を覆滅すべし」。
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1月11日
・ルーズベルト、議会に1000億ドルの予算を求める
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1月12日
・午後5時、第8方面軍参謀井本熊男中佐、ガダルカナル撤退命令を現地の第17軍に伝達するため駆逐艦5隻でラバウル発。撤収作戦の殿軍をつとめる矢野桂二少佐の1大隊750が同行。
13日午前8時ショートランド着。
14日正午ショートランド発。同午後10時頃エスペランス、上陸。
他に佐藤参謀と当番兵2人、食塩20日分、ウィスキ-1ダース、チョコレート、菓子、魚の干物などを持参。

矢野大隊は第38師団の補充要員で臨時編成の約750名で、小銃3中隊・機関統1中隊・山砲1中隊の編成、年齢30歳前後の未教育補充兵で、実包射撃の経験もない。
この部隊が捨て駒となって米軍に対抗し、その間に既存部隊を撤収させる作戦。任務の真相は、矢野大隊長以下にも知らされていない。命令受領が7日、軍装検査が10日、出発が12日という慌しさ。
矢野大隊は上陸後直ちに行軍。
井本参謀らは、15日午前2時半頃、司令部に向かい、夜、ようやく到着。

井本参謀は、宮崎参謀長・小沼参謀に経緯と方面軍命令を伝達するが、彼らの反対にあう。
病人・負傷者ばかりで撤退は不可能で、またそれらを救う為に貴重な艦船・飛行機を危険に晒すことは出来ないという理由だが、実施は撤退は第17軍の面子が立たないということ。
15日には結論が出ず。
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1月12日
・ソ連、ハンガリー軍、ヴォロネジでソ連軍に反撃され壊滅、戦死4万、捕虜7千、退却中凍死7千
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1月12日
・ソ連軍、レニングラードで反撃(第2次ラドガ湖戦)
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1月12日
・アフリカを北上してきた自由フランス軍、英軍と合流
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1月13日
・内務省・情報局、レコードを含む英米音楽約1千種の演奏禁止、レコードの自発的提出を求める
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1月13日
・ソ連『イスクラ(閃光)』作戦(レニングラードの包囲突破作戦)
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1月14日
・大本営政府連絡会議、「大東亜戦争完遂のためのビルマ独立施策に関する件」および「占領地帰属腹案」決定。
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1月14日
・カサブランカ米英首脳・参謀会議。
ルーズベルト米大統領・チャーチル英首相、第3次戦争指導会議開催(~24日)。スターリン・ソ連首相不参加。シチリア上陸作戦決定。ルーズベルト米大統領、無条件降伏原則を表明。

1年前のアーケディア会談と同様、ドイツ打倒第一主義、太平洋戦線は米軍の主担任を再確認。
英国は、太平洋方面に兵力をさく余裕はなく、ヒトラー滅亡迄は、43年11月予定のビルマ奪回の主作戦(「アナキム」)以上に助力できないと明言、米国に対し、ドイツ打倒を妨げるような大規模・長期的作戦を計画しないよう要望。
米国側は、対日基本戦略として、①海上封鎖、②本土爆撃、③本土上陸、を考え、そのうち②爆撃作戦に重点をおく旨を明らかにする。
日本本土爆撃の為の基地としては、フィリピン又は中国が適当だと思うが、未決定である、またその日標に達する進攻コースは、北太平洋からアリューシャン攻略、南太平洋からラバウル攻略、南北と呼応して中部太平洋を進んでトラック、グアム制圧を考慮すると述べる。

21日、連合軍統合参謀本部、「カサブランカ方針」の中で、アメリカ、イギリスによる「統合爆撃機攻勢(CBO)」を発表

22日、米英首脳、ド・ゴールとジロー双方をカサブランカに呼び、両者の妥協を導きだそうとするが失敗。ジローの主張は、「ジロー主席、ド・ゴール次席」でフランス軍を統率、総司令官(ジロー)はアイゼンハワー将軍に従属し政治活動は行わない、というもの。

この頃のルーズベルトのチャーチル宛書簡。
「ド・ゴールは誠実な男かもしれないが救世主意識に凝り固まっている」
「ジローを仏陸海軍の総司令官にすべきだ。ド・ゴールはどうしようもない。マダガスカル総督にでもしてはどうか」
「もはやド・ゴールと一緒に仕事をすることは不可能だ」「彼は戦争継続よりも政治的陰謀に熱中し、我々の軍事的利害に背いている」。

しかし、本国のレジスタンスはド・ゴールの味方。
前年1942年11月、ドイツ軍の自由地区占領後、ドイツによるヴィシーへの要求は厳しくなり(強制労働徴用など)、これに従うだけのヴィシー政府は人々の信望を失ってゆく。
ジローは北西アフリカで「旧ヴィシー派」をそのまま重用、執務室のペタンの肖像画も外さず。
本国レジスタンスの世論は、当初からヴィシーを「侵略者の手先」と呼んでいたド・ゴールの方に傾く。
「全国抵抗評議会」も、「フランス国民は、ド・ゴール将軍がジロー将軍に従属することを決して認めず、ド・ゴール将軍を議長に仰ぐ臨時政府がすみやかに設置されるよう要求する」との声明を発す。
北西アフリカに派遣された自由フランス代表カトルー将軍の工作により、ジロー派要人がド・ゴール支持に変ってゆく。
ジローはヴィシーが設けたユダヤ人差別法撤廃を躊躇。
ジロー派「北アフリカフランス軍」からド・ゴールの自由フランス軍に寝返る者が続出。
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1月15日
・重慶の国民政府、管制物価弁法の実行を開始。
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1月15日
・ポーランド、ポーランド労働者党、蜂起準備のため幅広い国民戦線創設と蜂起前段階の正規軍との協同作戦強化としてのゲリラ戦強化必要、決定、亡命政府代表に公開書簡発表、全ての愛国勢力の団結呼掛け
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1月15日
・独『ヴァイス(白)』作戦(チトーのパルチザン攻撃作戦)
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1月15日
・第8軍、ブエラトで攻勢
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中旬
・熱帯産業研究所サイパン支所長山中一郎、ラバウル出張。
第8軍司令官今村均命令、ジャングル開墾・熱帯農業による食料自活案作成指導。
1ヶ月後、軍参謀太田庄次・貨物廠長広田明ら協議して自活計画案を今村に提出。
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1月16日
・ガダルカナル、第17軍司令官、ようやく撤退を決意。
17日夕、小沼高級参謀が第2、38師団へ撤退命令伝達に向かう。第38師団佐野司令官・第2師団丸山師団長共に命令に従うこととなる。

16日には、第38師団正面では、見晴台南端に連出した米軍に対抗する陶村部隊(歩228)は、残存兵力僅少で、第1線も連隊本部も全周包囲下にある。
アウステン山正面は、13日以降の状況は全く不明(13日、無電機が破壊され、15日、歩124(岡部隊)は包囲突破、下山)。
独立山砲兵第10連隊(北山部隊)は12日、歩兵司令部と見晴台占拠部隊は13日、夫々全滅と判断される(実際には、北山部隊は陣地を奪われ、丸山道上マタニカウ川合流点に後退して別命を待っている事、17日に判明)。
第2師団は、15日朝から戦車を伴う米軍の圧迫に、沖川河畔に後退。
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1月16日
・英、スペインのタンジール併合を不承認。
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1月16日
・イラク、日独伊に宣戦布告
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1月16日
・1941年11月以来最初の英空軍によるベルリン空襲
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1月17日
・たばこが大幅値上げ、光18→30銭、金鶏10→15銭、軍隊用「ほまれ」は据置き
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1月18日
・民族研究所設立
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1月18日
・国立健康保険療養所官制公布
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1月18日
・米、ルーズベルト大統領、志願兵制度による日系米人の部隊編成決定、欧州戦線「442部隊」等
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1月18日
・フランス、共産党とドゴールの接触始る
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1月18日
・レニングラードの攻囲、解囲される
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1月18日
・チェニジアに最初のティガー戦車
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1月20日
・満州国、戦時緊急農産物増産方策要綱策定
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1月20日
・ニューギニア、南海支隊小田健作少将、ギルワ地区の第41連隊、第47高射砲大隊(淵山貞英中佐)にクムシ河口への撤退命ず。小田少将、副官富田義信中佐と自決。
援軍の第21旅団(山県少将)は、命令を待たず前日撤退。
月末、ギルワ守備隊、クムシ河口到着、2月8日、マンバレー地区に集結。
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1月20日
・ガダルカナル、タサファロング戦闘司令所で、宮崎参謀長とり各部隊代表者に撤退命令伝達。

参謀長は企図秘匿に関する注意を指示。
①将兵には「将来における攻勢に応ずるための配備変更」と教える。
②移動は夜間を選び、携行できない火砲、車輌は破壊する。
③重要畜類(暗号書)は必要最少限にとどめ、残りはすべて焼却する。
④流言を取締り、勝手に所属部隊を離脱する者は即刻厳罰する旨を一般に徹底させる。
⑨戦病死した上級者の所持品を調査し、重要書類を焼却する。

「新企図実行ノ為行動不如意ニアル将兵ニ対シテハ皇国伝統ノ武士道的道義ヲ以テ万遺憾ナキヲ期スルコト」。
撤退するとき独歩出来ない傷病者は置き去りにするが、それに際し武士道的に自決を覚悟強要せよ、という。
ガ島撤退は、殆ど奇蹟的に成功するが、それは、企図の隠密保持が撤退していたのと、軍の行動の統制が紊れなかった事によるが、独歩出来ない多くの傷病者が、覚悟の自決をし、或いはさせられ、各部隊の足手纏いとならなかったからである。

第38師団。
19日、第38歩兵団長が最後の斬り込み決行寸前のところ、師団長から師団司令部の位置まで後退う命令が届く。アウステン山方面は、全滅を予想していた独立山砲第10連隊(兵力約50)の存在も判明し、903高地付近に集結を命じる。歩228(陶村部隊兵力約250)は、宮崎台西側に後退、陣地を占領。
工兵第38連隊(岩淵部隊兵力約170)は、990高地と903高地を16日以来確保。これらを、徐々に西へ退ける。
アウステン山の岡部隊(歩124)は、右第1線の同連隊第2大隊と歩228第2大隊(稲垣大隊)を丸山北側陣地に残置し、15日夜、下山。この時、岡部隊長以下敵の包囲を突破する為、軍旗をア山に埋めるが、歩兵団長はこれを咎められ、山へ取りに戻る。
再び下山途中で、岡部隊長以下(員数不明)が戦死、小尾少尉だけが辛うじて友軍陣地に辿り着き、しかも撤収にも間に合う。
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1月20日
・勤労青少年補導要綱閣議決定
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1月20日
・経済協力に関する日伊協定調印
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1月20日
・独、ヴィリー・グラーフ、<白バラのビラ>第五号を持ちミュンヘンよりケルンへ出発
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1月20日
・経済協力に関する日独間および日伊間協定調印(ベルリン・ローマ)即日実施。
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