2013年9月1日日曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(53) 「三十 濹東の隠れ里 - 玉の井」 (その2)

東京 平川濠 2013-08-28
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昭和11年は二・二六事件が起きた年で、時代は息苦しくなりつつある。
前年2月3日、荷風は「日の丸」を買った。これまでいかなる日にも旗を出したことがない荷風が三越で日の丸の旗を買ったのは、「祭日に旗出さぬ家には壮士来りて暴行をなす由屡耳にする所なり。依って萬一の用意にとて旗を買ふことになせしなり」という。

「すでに満洲事変は起こり(昭和6年)、日中戦争(昭和12年)は間近。
時代は窮屈に、不自由になりつつある。
そんななかで荷風は、どこかに隠れ里を探していたのではないか。
東京の中心からはずれたところに瞬時とはいえ行方をくらまし、時代の流れから逃げたかったのではないか。」(川本)

荷風自身の個人的事情もある。
昭和11年の荷風は57歳になろうとする。
この時代では老人である。
次第に自分の命が限られてきていることに自覚的になっている。
この年2月24日の「日乗」には、肉欲、芸術の欲が衰えてきていると弱音を漏らしている。
「藝術の制作慾は肉慾と同じきものゝ如し。肉慾老年に及びて薄弱となるに従ひ藝術の慾もまたさめ行くは當然の事ならむ」
そしてこの日、荷風は、遺言を書き記している。
「一余死する時葬式無用なり。死体は普通の自働車に載せ直に火葬場に送り骨は拾ふに及ばず。墓石建立亦無用なり」など七ヶ条にわたって死後のことを述べている。

3月18日には
「我がつくりし家は土台くさりて我身は亦老朽ちんとす。歎きかなしむも今はせん方もなし」と書く。
老いのポーズもまだ多少はあるだろうが、かなりの部分はもう本音だろう。

「玉の井行きは、こうした老いを自覚した荷風にとっての最後の隠れ里探し、大仰にいえば死に場所探しだったのではないだろうか。
そして結論を先にいえば、荷風はこの玉の井でみごとに生き返る。
性的にも、芸術的にも〝回春〞する。
その意味で、玉の井は荷風にとって、隠れた桃源郷、ユートピアの役割を果した。
玉の井のような「売笑婦の住める」場末の私娼街によって救われたのは、いかにも陋巷を愛した荷風らしい。」(川本)

昭和11年に入って、荷風はこれまで殆ど足を運んだことのなかった東京の北端に足を延ばしている。

3月17日
浅草から東武電車に乗り、西新井大師に出かけ、境内を散策(帰りに西新井橋近くで、お化け煙突を見る)。

4月4日
「郊行を試む」とあり、上野から省線で川口にまで出かけて行く。
川口の町を歩くのは初めて。
川口の帰りには、京成電車に乗って青砥を過ぎ、中川をわたり、終点の金町にまで行っている。そしてその帰りにバスで玉の井を通っている。

4月5日
荒川堤戸田橋のあたりに散策に出かける。
巣鴨まで行き、志村行きのバスに乗り、戸田橋で降りる。長橋を渡って、川口の町へ出て、そこからバスで赤羽へ引き返す。戸田橋あたりの放水路の風景に心を奪われている。
昭和11年6月号の「中央公論」に発表された名随筆「放水路」はこのときの散策から生まれている。
"
自分はただ折り折りの「寂莫」を求めて、ひとり放水路を歩く。
人の姿のほとんど見えない堤を歩いていると「いかにも世の中から捨てられた成れの果だといふやうな心持になる」。
「寂莫」を求める目的には「放水路の無人境」はど適したところはない。
「絶間なき秩父おろしに草も木も一方に傾き倒れてゐる戸田橋の両岸の如きは、放水路の風景の中その最荒涼たるものであらう」

遺書は書いた。
老いの自覚はいよいよ深い。
この時期、荷風が西新井、川口、戸田橋とこれまでほとんど歩いていなかった東京の北端に出かけているのは、無垢な隠れ里を探し求めているからに思えてならない。
自分のまだ知らないところ、昔の文人たちでさえ描いたことがないところ、そこに美しい里があるのではないか。
時代の流れから取り残されているからこそ、慎ましい女たちがいるのではないか。

「この時期の「郊行」には、老いを強く自覚した荷風のそうした詩的な想いが凝縮されているように思う。」(川本)

「玉の井は、そうした隠れ里探しの最後にあらわれた。
この視点は、私には重要に思える。
荷風は単に、遊び場所を探していたわけではないし、ただ小説の舞台になる場所を探していたわけでもない。
昭和十一年という、人生の秋に、そして、時代が急速に戦争に向かって緊張していくなかで、荷風は、なによりも、瞬時とはいえ自分の行方をくらますことの出来る隠れ場所を求めていたのだ。
生活の場所は銀座に置きながらも、非日常の夢を見る場所として、時代の表面には決してあらわれてこない陋巷、狭斜の巷を求める。そのために荷風は、東京の奥へ、奥へ、場末へ、場末へと、逃げるようにして歩き続けた。
それは人間に追われて森の奥へ逃げて行く狼の姿にも似ている。」(川本)

この時期、荷風がいかに、隠れ里を求めていたかは、玉の井と並ぶ場末の私娼の町、亀戸にも足を運んでいたことからもわかる。
浅草十二階下にあった私娼の町(いわゆる銘酒屋が並ぶ町)が関東人震災によって焼失したあと、隅田川の東へと移動した。
ひとつが玉の井、もうひとつが亀戸である。

荷風は、昭和9年ころから、亀戸にも足を運ぶようになっている。
昭和9年11月21日
「晴れて暖なり。午後大石医院に往き電卓にて亀戸の終點に至る。天神橋の通り廣くなりて南側に商店立続きたるさま千住邊の新開町と異るところなし」
「(亀戸天神の)裏門より山でゝ藝者家の町を歩み行くにいつか私娼窟に出づ。安全通路また抜けられますなど書きたる燈下を立てたり。其光景向嶋玉の井の町と異るところなし」

亀戸の私娼街が玉の井とよく似ていることが観察されている。
昭和10年1月9日にも、中洲病院に行ったあと、市電で亀戸に行き、「私娼窟を歩む」。さらに、昭和11年5月2日にも、亀戸に出かけ、「萩寺裏の魔窟」を歩く。

震災後、このあたりの私娼街を歩こうとした芥川龍之介は、浅草千束町の私娼街と同じように自分にはとてもこういうところは歩けないといっている。
「たといデカダンスの詩人だったとしても、僕は決してこういう町裏を排桐する気にはならなかっただ
ろう」(「本所両国」昭和2年)。

芥川に比べると荷風は陋巷趣味が濃い。
平気で玉の井や亀戸に出かけていく。
かつて「曇天」(明治42年)で「晴れた春の日の日比谷公園に行くなかれ。
雨の降る日に泥濘の本所を散歩しやう」と書いた荷風は「デカダンスの詩人」である。

吉行淳之介の荷風追悼文「抒情詩人の扼殺」(「中央公論」昭和34年7月号)に倣えば「抒情詩人」である。
「五十八歳の荷風は、玉の井の私娼窟に、『見果てぬ夢』で表明したロンマンチックな心情を抱いて、歩み入ったとはおもえない。むしろ好色のため、といった方がはっきりするが、しかしそればかりではない、いやそれ以上に重要な因子があるとおもえる。
それは私娼窟の風物のもっている陰湿な、うらぶれた、それから安っぽい色彩のもつ悪徳のムードと、その地帯をとりまく昔ながらの江戸の風情を残している墨田川周辺の風物のせいのようだ。つまり、ここにも扼殺し切れない荷風の中の抒情詩人とつながるところがある。
こういうことを言い替えれば、脂粉の巷を描くことは、荷風の現実脱出の心情にもつながるのである。
脂粉の巷にたいして感じる、気質的なロマンチックな心持。それと同時に、過去の、日本というものを感じさせる(この点、荷風はいわゆる明治人間で、日本罵倒は、感受性の最もするどい時期におけるフランス遊学そして心酔、および愛国心の裏返しにされたものとの入りまじったものといえよう)風物にたいする愛好。それが、ロマンチスト荷風を脂粉の巷に結びつけるものであったわけだ」

「この時期、荷風は、明らかに東京の奥へ、奥へと隠れ場所探しをしている。玉の井は、こうした流れのなかで荷風の前に、ゆっくりとたちあらわれてきた。」(川本)

野口富士男は『わが荷風』のなかで、「『濹東綺譚』における永井荷風は風俗作家ではなくて、詩人である」「『濹東綺譚』をつらぬいているものは散文精神ではなくて、詩的精神である」と指摘しているが、その荷風の「詩的精神」は、東京の奥へ、奥へと隠れ里探しをしている段階ですでに準備されていたといっていいだろう。

「「濹東綺譚」の玉の井は、現実の玉の井というより、荷風の”末期の目”で見られた幻影の町である」。(川本)
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