2020年7月9日木曜日

慶応4年/明治元年記(13) 慶応4年(1868)3月上旬 尾張藩、博徒部隊「集義隊」を含め7つの民兵部隊=草莽隊を結成

慶応4年/明治元年記(12) 慶応4年(1868)2月21日~30日 松平容保、会津到着、武備恭順 相楽総三、下諏訪に帰陣 彰義隊結成式 堺事件関係者11名切腹 「中外新聞」創刊 英公使パークス襲撃 上州世直し一揆
より続く

慶応4年(1868)
3月
・ハワイ王国より日本駐在ハワイ領事ヴァン・リードに移民受入れ草案が届く。予定の350人が148人(内、女性6人)となる。農業を知らない博徒や町の遊び人が多く失敗。
・(露暦3月)リムスキー・コルサコフ擁護のチャイコフスキー論説。新聞「現代暦年記」。
・ニーチェ、落馬して胸を負傷。8月まで療養生活。10月半ば除隊。
3月上旬
・尾張藩、集義隊1・2番隊の成立。雲風の亀吉(平井亀吉)率いる86人・北熊一家近藤実左衛門率いる50人、名古屋大須の大光院を屯所として結隊。隊長は藩の世臣渡辺三田丸。集義1番隊(106人):下締役平井亀吉、2番隊(96人):下締役近藤実左衛門。この集義隊の中から、後、明治17年の名古屋事件の累連者を出す。
□北熊一家(近藤実左衛門)の場合:
1月17日夕刻、尾張藩大目付渡辺鉱次郎より、明朝辰の刻、藩黌明倫堂へ出頭せよと呼び出し状が届く。渡辺は温顔をもって実左衛門を迎え、4年前の天狗党探索の功を改めて讃え、今度勅命により当藩も御東征のため出兵することになった。「勇猛決死ノ隊ヲ要ス。汝若干人ヲ糾合シ之ヲ率ルヲ得ルヤ」という。斬刑さえ覚悟の実左衛門にとって思いがけぬ幸運に思え、「お殿様の御命令とあれば、実左衛門め生命を捨てて御奉公仕ります」と即答。2月10日、268名の名簿が尾張藩庁に差し出されるが、これは実左衛門の誤算。2月下旬、家族と別れ、故郷を捨てて名古屋の屯所に集合する段になると、色々故障を申し立て参加を取り止める者が続出、実左衛門が実際に率いて名古屋に参集する北熊一家の人数は50人となる。
□平井一家(雲風の亀吉)の場合:
同時期、同じ理由で尾張藩庁から働きかけ。尾張藩が草莽隊を編成するにあたり、「その適任者を物色中、先ず目にとまったのが雲風亀吉で、平素度々私の怨を構えて闘争を事とし、上役人の手数を煩わして居る代りに、幾度か白刃の下を潜って来た経験上胆も据って居るし、腕も冴えて居る上、一と度起って呼号すれば、忽ち身命を賭して彼の手足の如くに働く多数の乾児を持って居ると云う、実に誂え向きの男である処から、雲風は再三役人から勧められた未、遂に其の勧めを容れ、諸方に四散している乾児共に檄を飛ばして約八十名の一隊を得て尾張藩に従った」。
□尾張藩の魂胆。
平井一家は三河を舞台に黒駒の勝蔵と組んで、清水の次郎長一党と幾度かの激闘を経験し、腕と度胸を磨いた三河随一の博徒集団。北熊一家は、戦功による苗字帯刀・剣術指南という隠れ蓑を着ることで、腕力により縄張りを伸ばしてきた尾張随一の博徒集団。藩権力は、それらが無法集団であることを百も承知で、今後の展開が予測できない倒幕出兵を前に、可能な限り正規藩兵の温存を図り、まず補充的に集めうる民兵を先鋒に利用しようとした。博徒組織は団結力・統制力・戦闘力・戦闘経験において、士気の弛緩した士族よりも一層直ちに実戦転用しうる武力集団であり、政治的混乱期に乗じる危険な無法集団でもある。藩権力はそれを巧みに囲いこみ、「前科黙認ー士族採用」を餌に、藩の勤王実績の為の先鋒に転用するという、まさに一石二鳥の打算の上に企図される。
□集義一番隊(106人)。平井一家(86〉、水野弥太郎一家(濃州岐阜)・馬場権太郎一家〈尾州)・鈴木富五郎一家(遠州浜松)・三九郎一家(尾州西蜆〉・その他(約20名)。名古屋事件連累者:服部三蔵(重懲役10年)、水野正三郎(同)、傍島粂蔵(重懲役9年)、仁村菊次郎(重懲役8年)。
□集義二番隊(96人)。北熊一家(50)、信濃屋一家・津島の伝右衛門一家の一部(46)。名古屋事件連累者:大島渚(死刑)、中条勘助(無期徒刑)、萩野浅五郎(裁判中獄死)。
尾張藩、博徒部隊「集義隊」を含め7つの民兵部隊=草莽隊を結成。「集義隊」「磅礴隊」「正気隊」「帰順正気隊」「精鋭隊」「草薙隊」「愛知隊」。
□「磅礴隊」。
尾張国丹羽郡楽田村の松山義根・愛知郡南野村の浅見長之進・中島郡瀬部村平田鋭之輔ら庄屋級の豪農子弟20名が連名して藩庁に「草弄隊の結成-従軍」歎願書を提出、許可されて結成。この草莽有志は隊の監察・参謀・伍長などの幹部に任命されるが、一般隊員は藩庁が公募。一般隊員約150名の出身地を調べると、名古屋52、尾張郡部69、美濃12であるが、越後・下野・肥前など遠国の者約20名が含まれる。名古屋出身者は小商人または細民層が多く、卒・足軽・雑吏・家来という下層武士ないし武家奉公人も相当数混入。農村出身者は調査対象23名で見れば、土地所有高1町以下5反以上4、5反以下9、崩有地なし10と圧倒的に貧農層が多い。「磅礴隊では、武技に長じ胆力のある者だったら、誰でも隊士に加入させた。博徒でも浮浪人でもよかった。従って中には乱暴者もいたりして隊の統制が仲々むつかしかった」(小笠原長生「八代六郎伝」)。のちの海軍大将八代六郎は、草莽有志松山義根の実弟で磅礴隊員。
隊士は、藩士らに侮蔑の眼で見られ罵声を浴びせられたりして、軋轢を生む。しかし、素人剣法で藩士を斬り倒しても、藩士に斬って捨てられたという例は1件もない。剣術指南役柳生先生の脳天を下駄でしたたか叩いたりもする。草莽隊員のうちに混沌として渦巻く気魄は、武士階級を圧倒。この磅礴隊の一般隊士からも、のちの名古屋事件の処刑者3名を出す。山内徳三郎(有期徒刑13年)、安藤浅吉(有期徒刑12年)、鬼島貫一(獄死)。

つづく



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