2020年8月3日月曜日

1891年(明治24年)8月3日付け漱石(24)の子規宛て書簡と漱石の道ならぬ恋

1891年(明治24年)8月3日、24歳の夏目漱石は正岡子規(24歳)に宛てて長い手紙を送っている。その手紙の内容は、前半が嫂登勢(7月28日病没)に関する「悼亡」、後半は鴎外の作品2篇を賞めて子規に批判されたことに関しての弁明である。

この手紙の前半に関して、十川信介『夏目漱石』(岩波新書)にはこうある。

「三兄直矩の二度目の妻、登世である。彼女は漱石と同年の二十五歳で、悪阻のために亡くなった。その追悼の句に、「君逝きて浮世に花はなかりけり」「鏡台の主の行衛や塵埃」などがある。喪失感に満ちた句である。彼女は賢くて、温かい人柄で、通学する義弟に明るく話しかけたり、弁当を持たせてくれたりしたそうだから、家中で一人だけ彼が親しんだ人物だっただろう。江藤淳『漱石とその時代』第一部では、「恋をしていたとすれば彼はうたがいもなく死んだ嫂に恋をしていたのである」と推測している。その理由としては、子規宛書簡に「そは夫に対する妻として完全無欠と申す義には無之候へ共」や、彼女に「精魂」があるなら、「二世と契りし夫の傍か、平生親しみ暮せし義弟の影に髣髴(ほうふつ)たらんか」とあることを挙げているが、それが「三角関係の自覚」だったという確証はない。嫂は孤立している義弟に同情し、義弟はまた、放蕩者の兄が女遊びをし、それに堪えている妻に同情を寄せていたとも考えられるからである。義弟、漱石の小説で言えば、この二人の仲が、”Pity's akin to love”(『三四郎』の与次郎「訳」によれば、「可哀想だた惚れたって事よ」)なのか、あるいは『行人』の一郎・二郎兄弟と一郎の妻、お直の「三角関係」のように、一郎の「妄想」が作り出した幻想なのかも判然としない。」(岩波新書『夏目漱石』)

漱石の道ならぬ恋というセンセーショナルな事柄ではあるが、結論から言えば、どうやら江藤説は賛同者が少なく不利なようである。

もう少し掘り下げてみてみると、、、、
子規宛の漱石書簡(悼亡句)と「行人」との関連について最初に注目したの小泉信三とのこと(『読替雑記』「夏目漱石」(文芸春秋新社、1948年))。
モラリスト漱石の小説の「道ならぬ恋」のテーマが多い、就中、「行人」の中で弟と嫂との関係が微妙で、図らずも暴風雨のため余儀なく旅館で一夜を共に明かす場面や、家を出た弟の下宿を嫂が訪ねる場面は、架空によるものか、実体験によるものか、と疑問を呈し、子規に充てた悼亡書簡との関連に注目したという。

小泉の「憶測」に対して、江藤淳は「登世という名の嫂」(薪潮一九七〇年三月)、『漱石とその時代』第一部・第二部で登世という嫂との禁忌の恋を主張した。
登世と漱石の兄直矩が結婚した1888年4月、漱石は養家塩原家から実家夏目家に復縁した時期であった。水田家と夏目家との間に弟妹間の交流が始まり、漱石も芝愛宕町の水田家をしばしば訪れて、よく芋を所望したことから密かに「芋金」とあだ名されていたという。水田家には御家人くずれで言葉使いの丁寧なますという婆やがいて、「金さま、金さま。」と言って大の漱石贔屓で、漱石には料理に一品だけ余計に付けていたという。水田家では未だにますが「坊っちゃん」のきよのモデルだと信じているという。さらに、登世の病中漱石が嫂を抱いて二階への上り下りを助けて、濃やかに世話をしたことを伝えた(江藤淳「登世という名の嫂」) 。

ま、のちに小説の題材にするということとそれが現実にそうであったということは全く別物なので、それを混同することは早計であろう。

8月3日付け漱石の子規宛て書簡

「不幸と申し候は余の儀にあらず、小生嫂の死亡に御座候。実は去る四月中より懐妊の気味にて悪阻(おそ)と申す病気にかゝり、兎角打ち勝(すぐ)れず漸次重症に陥り子は闇より闇へ、母は浮世の夢廿五年を見残して冥土へまかり越し申候。天寿は天命死生は定業(じようごう)とは申しながら洵に(まこと)洵に口惜しき事致候。
わが一族を賞揚するは何となく大人気なき儀には候得共、彼程の人物は男にも中々得易からず、況(まし)て婦人中には恐らく有之(これある)間じくと存居候。そは夫に対する妻として完全無欠と申す義には無之候へ共、社会の一分子たる人間としてはまことに敬服すべき婦人に候ひし。先づ節操の毅然たるは申すに不及(およばず)、性情の公平正直なる胸懐の洒々落々(しやしやらくらく)として細事に頓着せざる抔、生れながらにして悟道の老僧の如き見識を有したるかと怪まれ候位、鬚髯鬖々(しゆぜんさんさん)たる生悟(なまさと)りのえせ居士(こじ)はとても及ばぬ事小生自から慚愧(ざんき)仕候事幾回なるを知らず。かゝる聖人も長生きは勝手に出来ぬ者と見えて遂に魂帰冥漠魄帰泉只住人間廿五年(こんはめいばくにきしはくはせんにきすただにじかんにすみてにじゆうごねん)と申す場合に相成候。さはれ平生仏けを念じ不申(もうさず)候へば極楽にまかり越す事も叶ふ間じく、耶蘇(ヤソ)の子弟にも無之候へば天堂に再生せん事も覚束なく、一片の精魂もし宇宙に存するものならば二世と契りし夫の傍か、平生親しみ暮せし義弟の影に髣髴(ほうふつ)たらんかと夢中に幻影を描き、ここかかしこかと浮世の羈絆(きはん)につながるゝ死霊を憐み、うたゝ不便(ふびん)の涙にむせび候。母を失ひ伯仲二兄を失ひし身のかゝる事には馴れ易き道理なるに一段毎に一層の悼惜を加へ候ば、小子感情の発達未だ其頂点に違せざる故にや。心事御推察被下(くだされ)たく候。
 悼亡の句数首左に書き連ね申候。俳門をくゞりし許りの今、道心佳句のあり様は無之、一片の衷情御酌取り御批判被下候はゞ幸甚。
朝貌(あさがお)や咲た許りの命哉(かな)
細眉を落す間もなく此世をば(未だ元服せざれば)
人生を廿五年に縮めけり(死時廿五歳)
君逝(ゆ)きて浮世に花はなかりけり(容姿秀麗)
仮位牌(かりいはい)焚く線香に黒む迄
こうろげの飛ぶや木魚の声の下
通夜僧の経の絶間やきりぎりす(三首通夜の句)
骸骨や是も美人のなれの果(骨揚のとき)
何事ぞ手向(たむけ)し花に狂ふ蝶
鏡台の主の行衛(ゆくえ)や塵埃(ちりほこり)(二首初七日)
ますら男(お)に染模様あるかたみかな(記念分(かたみわけ))
聖人の生れ代りか桐の花(其人物)
今日よりは誰に見立ん秋の月(心気清澄)」

以上、8月3日の今日にちなんだ漱石の話題まで。





0 件のコメント: