元暦2/文治元(1185)年
11月1日
・義経討伐のための源頼朝軍、駿河の黄瀬川に陣を置く。しばらく逗留(「吾妻鏡」同日条)。
11月2日
・義経、参院し、山陽・西海の荘園・公領の沙汰権などを認可される(九州平定の院宣下る)。
義経は後白河に同行を拒否されてあきらめ(『玉葉』10月21日条)、西海に落ちるにあたり、義経・行家をそれぞれ「九国(九州)の地頭」「四国の地頭」に補任し、その命令によって、山陽・西海等の荘園・公領の調庸租税、年貢雑物らを京上させるようにする、という内容の院宣を獲得(『玉葉』11月2日条)。
このことを諮問された兼実は、追討宣旨を出した以上、そのような些細なことは申請のままに認めて、混乱を招いている義経等を京都から早く追い出すようにと回答。
11月2日
・義経達の乗船の調達のために摂津に向かった斎藤友美が、もとは義経の家人で今は離反していた武蔵児玉党の庄四郎(しょうのしろう)に謀殺される。斎藤友実は、越前斎藤一族で、平氏・義仲・義経と渡り歩いた人物である(『吾妻鏡』11月2日条)。庄四郎は、覚一本(巻9)では、名は高家とあり、一ノ谷で梶原景時に従い、平重衡を生け捕った人物としてみえている。
「豫州すでに西国に赴かんと欲す。仍って乗船を儲けしめんが為、先ず大夫判官友實を遣わすの処、庄の四郎(元豫州家人、当時相従わず)と云う者有り。今日途中に於いて友實に相逢う。問いて云く、今の出行何事ぞや。友實実に任せ事の由を答う。庄偽って元の如く豫州に属くべきの趣を示し合わす。友實またその旨を豫州に伝達すべしと称し、相具して進行す。爰に庄忽ち廷尉に誅戮せられをはんぬ。件の友實は越前の国齋藤の一族なり。垂髪して仁和寺宮に候す。首服の時平家に属く。その後向背して木曽に相従う。木曽追討せらるるの比、豫州の家人と為る。遂に以て此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。
11月3日
・義経・行家、辰の刻(午前8時頃)、院御所に赴いて暇乞いをしたのち、頼朝の追討を逃れるため西国へ向かう。緒方惟栄が先導。総勢1万5千騎のうち、義経・行家・静御前など一行500人は大船「月丸」で海路を行き、残りは陸路での都落ち。京中は騒動。
二人に同行したのは、平時実(平時忠の子)・藤原能成(藤原長成の子、義経の異父弟)・源有綱(義経の婿)・堀景光・佐藤忠信・伊勢義盛・片岡弘経・弁慶法師以下、200騎ほど。壇ノ浦で生け捕りになり、周防国への配流が決まっていた平時実が、配所に赴かずに義経と行動をともにしているのは、義経が捕虜となった時忠の娘と結婚した緑によるものか。
・京都は平氏都落ちと同じ騒動。義経側近は法皇を連れて行く様主張するが、義経はその必要なしと表明。噂はしきりに流れ、兼実は女性たちを避難させる。
義経達が下向すると、京都に残留していた武士達(手島冠者と藤原範季の子、範資)がその後を迫った(『玉葉』11月3日・4日条)。範資は儒者の出であるが、勇士の性があり、範頼と親しく、在京していた範頼の郎従を伴っていたという(『玉葉』11月8日条)
「前の備前の守行家(桜威の甲)・伊豫の守義経(赤地錦の直垂・萌葱威の甲)等西海に赴く。先ず使者を仙洞に進し、申して云く、鎌倉の譴責を遁れんが為、鎮西に零落す。最期に参拝すべきと雖も、行粧異躰の間、すでに以て首途すと。前の中将時實・侍従良成(義経同母弟、一條大蔵卿長成男)・伊豆右衛門の尉有綱・堀の彌太郎景光・佐藤四郎兵衛の尉忠信・伊勢の三郎能盛・片岡の八郎弘綱・弁慶法師已下相従う。彼此の勢三百騎かと。」(「吾妻鏡」同日条)。
出発時、行家・義経は、四国・九州の住人に行家・義経の命令に従うよう命じた院庁下文を首にかけて出発したという(「吾妻鏡」)。
「去る夜より、洛中の貴賤多く以て逃げ隠る。今暁、九郎等下向するの間、狼藉を疑わんが為なり。辰の刻、前の備前の守源行家・伊豫の守兼左衛門の尉(大夫の尉なり。従五位下)同義経(殿上侍臣たり)等、各々身の暇を申し西海に赴きをはんぬ。これ則ち指せる過怠無し。頼朝の為誅伐せられんと欲す。彼の害を免れんが為下向する所なり。始め推して頼朝を討つべきの宣旨を申し下すと雖も、事叡慮より起こらざるの由、普く以て風聞するの間、近国の武士将帥の下知に従わず。還って義経等を以て謀反の者に処す。しかのみならず、法皇已下然るべきの臣下等を引率し、鎮西に向かうべきの由、披露するの間、いよいよ人望に乖き、その勢日を遂って減少す。敢えて與力の者無し。仍って京都に於いて関東の武士を支え難く、これを以て下向すと。院中已下諸家・京中悉く以て安穏す。義経等の所行、実に以て義士と謂うべきか。」(「玉葉」同日条)。
「武勇と仁義とにおいては、後代の佳名を貽(のこ)す者か。歎美すべし。歎美すべし」(同11月7日条)。
11月3日
・後白河法皇(59)、基通に摂政職を兼実に譲る事を勧む。
後白河は、基通のもとに使者を派遣して、頼朝は「忿怒(ふんど)」しており、自分の運も尽きたといい、去年、頼朝が兼実を推挙した際には、自分が抑留したので「其の意を遂げ」なかったが、もはや頼朝の要求を拒むことはできないので、「右府(兼実)が天下を沙汰するのが最も穏便」であるとして、基通に辞職を勧めた(『玉葉』11月14日条)
11月4日
・義経一行、摂津武士の太田頼基に摂津河尻で迎撃されるが勝利。
太田頼基は、義経等の下向の噂を聞いて、かねてから城郭を構えて待ちかまえており、義経が下向のための船を調達するために遣わした紀伊権守兼資をすでに討ち取っていた。義経が九州ではなく、北陸へ下向するという風聞がたったのもそのためであった(『玉葉』10月30日条)。"
「今日また、武士等義経を追行すと。伝聞、昨日、河尻の辺に於いて、太田と合戦す。義経利を得て、打ち破り通りをはんぬと。」(「玉葉」同日条)。
つづく
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