2022年12月31日土曜日

〈藤原定家の時代226〉元暦2/文治元(1185)年10月24日~10月30日 南御堂(勝長寿院)落慶供養(東国御家人の軍事的再結集をはかり、頼朝の源氏嫡流の地位を誇示する場) 小山朝政・結城朝光を源義経討伐に向かわせる 頼朝自身も義経・行家追討のため鎌倉を進発   

 


〈藤原定家の時代225〉元暦2/文治元(1185)年10月19日~10月23日 義経のもとに頼朝追討の兵集まらず 「宣下の後武士を狩る。多く以て承引せずと。」 「近江の武士等、義経等に與せず。奥方に引退すと。」 より続く

元暦2/文治元(1185)年

10月24日

南御堂(勝長寿院)落慶供養

平治の乱で敗死した源義朝の復権を祝う一大セレモニーであり、東国御家人の軍事的再結集をはかり、頼朝の源氏嫡流の地位を誇示する場。畠山重忠が隋兵の筆頭。

供養後、侍所別当和田義盛・所司梶原景時に、明日上洛を軍士に伝えるよう命じる。即座に千葉常胤以下御家人2096人が群集、うち58人が即座に上洛を申出る。頼朝の出発は29日午前10時。

亡父義朝追善供養の一大式典は、鎌倉に集結した東国武士の京都出陣の場となる。「御家人参集」は軍事パレード。土佐坊昌俊を派遣し襲撃を「九箇日」の後と厳命したした時点で、義経追討のシナリオは完成されている。

1年前の10月25日に勝長寿院建立を決めるが、

①「南御堂事始」挙行は屋島の戦勝が確認された日(元暦2年2月)、

②「南御堂柱立」は西海の義経より平氏滅亡の報が入った日(同年4月)。

源家再興を勝長寿院に象徴化させた頼朝の「政治」。

〈大江広元の活動〉

前年、元暦元年(1184)11月26日に造営の犯土(はんど)奉行を勤めた。犯土は、「土を掘ったり移動したりすること」で、実行にあたっては、陰陽道(おんみょうどう)の説に基づき、土中の神(土公)の崇りを避けるために適切な時期が慎重に選ばれた。次に、この年、元暦2年(1185)9月10日、供養に下向する導師の宿の手配に関する御家人賦課、10月3日には供養導師へ与える布施進物の手配を行い、10月21日には供養願文を頼朝御前で読みあげた。広元は、勝長寿院造営に関わる一連の行事の中心的実務に一貫して携わっていた。

北条義時(23)、勝長寿院供養会に供奉。

「今日南御堂(勝長寿院と号す)供養を遂げらる。寅の刻、御家人等の中、殊なる健士を差し辻々を警固す。宮内大輔重頼会場以下を奉行す。堂の左右に仮屋を構う。左方を差し辻々を警固す。宮内大輔重頼会場以下を奉行す。堂の左右に仮屋を構う。左方て布施取り二十人の座と為す。山本にまた北條殿室並びに然るべき御家人等の妻の聴聞所有り。巳の刻、二品(御束帯)御出で。御歩儀。行列 先ず随兵十四人 畠山の次郎重忠 千葉の太郎胤正 三浦の介義澄 佐貫四郎大夫廣綱 葛西の三郎清重 八田の太郎朝重 榛谷の四郎重朝 加藤次景廉 籐九郎盛長 大井の兵三次郎實春 山名の小太郎重国 武田の五郎信光 北條の小四郎義時 小山兵衛の尉朝政 小山の五郎宗政(御劔を持つ) 佐々木四郎左衛門の尉高綱(御鎧を着す) 佐々木四郎左衛門の尉高綱(御鎧を着す) 御後五位六位(布衣下括)三十二人 源蔵人大夫頼兼 武蔵の守義信 参河の守範頼 遠江の守義定 駿河の守廣綱 伊豆の守義範 相模の守惟義 越後の守義資(御沓) 上総の介義兼 前の対馬の守親光 前の上野の介範信 宮内大輔重頼 皇后宮の亮仲頼 大和の守重弘 因幡の守廣元 村上右馬の助経業 橘右馬の助以廣 関瀬修理の亮義盛 平式部大夫繁政 安房判官代高重 籐判官代邦通 新田蔵人義兼 奈胡蔵人義行 所雑色基繁 千葉の介常胤 同六郎大夫胤頼 宇都宮左衛門の尉朝綱(御沓手長) 八田右衛門の尉知家 梶原刑部の丞朝景 牧武者所宗親 後藤兵衛の尉基清 足立右馬の允遠元(最末)次いで随兵十六人 下河邊庄司行平 稲毛の三郎重成 小山の七郎朝光 三浦の十郎義連 長江の太郎義景 天野の籐内遠景 渋谷庄司重国 糟屋の籐太有季 佐々木太郎左衛門定綱 小栗の十郎重成 波多野の小次郎忠綱 廣澤の三郎實高 千葉の平次常秀 梶原源太左衛門の尉景季 村上左衛門の尉頼時 加々美の次郎長清 次いで随兵六十人(・・・) 東方・・・西方・・・。・・・事終わり布施を引かる。・・・還御の後、義盛・景時を召し、明日御上洛有るべし。軍士等を聚めこれを着到せしむ。その内明暁進発すべきの者有るや。別してその交名を注進すべきの由仰せ含めらると。半更に及び、各々申して云く、群参の御家人、常胤已下宗たる者二千九十六人、その内則ち上洛すべきの由を申す者、朝政・朝光已下五十八人と。」(「吾妻鏡」同日条)。

足利義兼、新田義兼・山名義範・源範頼ら五位六位の供養人として源頼朝の後ろ続き布施を取る。随兵には山名重国・藤姓足利(佐野)基綱・佐貫廣(成)綱・佐野又太郎(国綱か)ら(「吾妻鏡」)。安達盛長も行列の先頭14人の1人。

10月25日

・頼朝、小山朝政・結城朝光を源義経討伐に向かわせる。まず、尾張・美濃まで進出し、両国住人に墨俣の渡しを固めさせ、入洛するよう指示。

「今暁、領状の勇士を差し京都に発遣せさる。先ず尾張・美濃に至るの時、両国の住人に仰せ、足近・洲俣已下の渡々を固めしむべし。次いで入洛の最前に、行家・義経を誅すべし。敢えて斟酌すること莫れ。もしまた両人洛中に住せざれば、暫く御上洛を待ち奉るべし。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月25日

・義経に味方する武士が集まらなく、洛中上下はあわてふためく。

後白河は兼実らに対応を検討させる。兼実は、頼朝のもとに使者を出すべきだが、使者を出しても頼朝の憤怒はおさまらないだろう。使者を出すならば、宣旨を出す前に遣わすべきで、今さら遅いと突き放している。率先して追討宣旨発給に同意し、宣旨発給の上卿(しょうけい)まで務めた左大臣経宗が「早く弁明の使者を派遣するのが上策です」と述べたと聞き、兼実はその変わり身の早さを批判(経宗はこの後、頼朝に睨まれ、しばらく干される)。

なお、兼実に院宣を伝えた高階泰経は、後白河に政治力がないから、天下が乱れるのだと兼実にぼやいている。

結局、後白河は頼朝に使者を派遣して弁明するが、頼朝の怒りは収まらない。

これが、兼実にとっての追い風となる。

10月27日

「二品奉幣の御使を伊豆・箱根等の権現に立てらる。伊豆は新田の四郎、箱根は工藤庄司なり。各々御馬一疋を奉らると。また筑前の介兼能御使として上洛すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月28日

・片岡常春が舅佐竹義政に同心。謀反とみなし所領を没収される。

「片岡の八郎常春、佐竹の太郎(常春舅)に同心し謀叛の企て有るの間、彼の領所下総の国三崎庄を召し放たれをはんぬ。仍って今日千葉の介常胤に賜う。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月29日

・頼朝軍、義経・行家追討のため、前陣を土肥実平、後陣を千葉常胤が勤め鎌倉出発。この日、相模中村庄に到着。

「豫州・備州等の叛逆を征せんが為、二品今日上洛し給う。東国の健士に於いては、直にこれに具せらるべし。山道・北陸の輩は、山道を経て近江・美濃等の所々に参会すべきの由、御書を廻らさる。また相模の国住人原の宗三郎宗房は、勝れて勇敢の者なり。而るに早河合戦の時、景親に同意せしめ、二品を射奉るの間、科を恐れ逐電す。当時信濃の国に在り。早くこれを相具し、洲俣辺に馳参すべきの旨、彼の国の御家人等の中に仰せ下さると。巳の刻進発せしめ給う。土肥の次郎實平先陣に候す。千葉の介常胤後陣に在り。今夜相模の国中村庄に御止宿。当国の御家人等悉く参集す。」(「吾妻鏡」同日条)。

「伝聞、義経猶法皇を具し奉るべきの由風聞す。仍って泰経を以てこれを尋ねらる。仍って誓状を以て諍え申すと。」(「玉葉」同日条)。

10月30日

・摂津の太田頼基が城郭を構え、西国行きの義経を狙い、義経のために船を用意した紀伊権守兼資を討つ。そのため、義経一行が北陸下向との風聞(「玉葉」同日条)。


つづく



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