2024年2月2日金曜日

大杉栄とその時代年表(28) 1889(明治22)年3月~4月 岡本かの子・和辻哲郎・チャップリン・ヒトラー生まれる 光緒帝(19)親政 森鴎外(27)結婚 後藤象二郎入閣 エッフェル塔完成 北村透谷「楚囚之詩」 尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』    

 


大杉栄とその時代年表(27) 1889(明治22)年2月 幸田露伴『露団々』 石橋正二郎生まれる 大日本帝国憲法発布 「吾人は直に憲法の改正を請はざる可らず」(幸徳秋水「兆民先生」) 森有礼暗殺 大赦令公布 衆議院議員選挙法公布 陸羯南、新聞「日本」創刊 大隈外相、アメリカと条約改正調印 宮武外骨、「骸骨が研法を下賜する図」により重禁錮3年罰金100円 より続く

1889(明治22)年

3月1日

岡本かの子、誕生。

3月1日

和辻哲郎、誕生。

3月2日

ボアソナアド、民法典原稿起草完成。

3月4日

[光緒15年2月3日]光緒帝(19)の親政開始。実父醇親王が輔政。西太后は北京郊外頤和園に移り政界引退。

頤和園:

光緒12(1886)年8月17日より造営開始(「長崎事件」の1ヶ月後)。三海の造営工事と共に、醇親王が海軍費(銀1300万両)を造営に流用。①「北洋水師の増強=李鴻章の発言力増大」阻止、②外国での軍艦建造による銀の海外流出阻止、③国防費の阻止=主戦論の抑止

「后党」と「帝党」の対立。

「后党」:李鴻章・栄禄ら頤和園の指示を仰ぐグループ。「帝党」:光緒帝の師翁同龢らのグループ(ポスト西太后をにらみ集まってくる)。

3月6日

森鴎外(27)、海軍中将男爵赤松則良の長女登志子と結婚。媒酌人西周。3月9日裁可。(翌年9月に離婚)。

3月12日

半井桃水『唖聾子』(『東京朝日新聞』~4月17日)、『くされ緑』(6月16日~8月16日)、『小町奴』(9月4日~10月15日)、『海王丸』(11月26日~29)。

漱石はこれらのうちいずれかを読む。(龍口了信)

3月12日

一葉(17)の則義、事業に失敗。神田区淡路町2丁目4番地の小川女子小学校傍に転居。債権者から逃れるためか。

前年6月に出版された田邊花圃の『薮の鴛』に刺激を受け、この家で一葉は初めて小説の断片を書く。折から花圃の通った東京高等女学校が艶聞事件を起こし、先進的女子教育が新聞の批判を浴びているときに、一葉は女権の拡張や男女平等に悲観的ながらも意識を向け、女性としての可能性を早くも考え始める。

3月15日

海南倶楽部、衆議院議員候補者に片岡健吉・林有造・竹内綱・植木枝盛を決定、3月15日付「土陽新聞」に発表。月末、枝盛は帰郷、選挙区となる高知県第3区の香美・安芸2郡を遊説。

3月15日

大日本紡績同業聯合会(1888年6月紡績聯合会が改組・改称)、新しい規約第7条に「罷工ヲナス等ノ場合」は「速ニ其職工ノ姓名ヲ同盟中ニ通知」し、雇傭停止措置をとることとする。大阪天満紡績のストライキに先立つこと6ヶ月。当時大阪紡績のストライキ対策に効果があったといわれる。

3月18日

第一高等中学校、神田一ツ橋から本郷追分町(東京帝国大学に隣接)に新築移転。

3月22日

大同団結運動中心人物後藤象二郎、逓信大臣として黒田清隆内閣入閣。大同団結運動から反対の声が上がり運動分裂の兆しとなる。

兆民は、平民主義をめざす運動は老政治家と手を切れと説く。枝盛は「後藤伯の入閣」(「土陽新聞」3月30日)で、後藤は「主義を携へ」て入閣したと弁護、後藤への牽制と期待。

3月23日

梶原平馬(47、元会津藩家老)、根室で没。

3月23日

ポール・シニャック、アルルの病院にゴッホを見舞う。

3月27日

「南越倶楽部」発起相談の集会。足羽・吉田・丹生・今立・南条5郡から旧自由党加盟者・南越自由党加盟者21人が出席。

武生の鎌仁楼。後藤戦線離脱後の大同団結運動の再構築と第1回総選挙への対応の為に、若越親睦会の挫折を踏まえ、全県的組織構築を目指す。

4月10日、機関雑誌「暁」(月刊)、主筆松下豊吉、発刊兼印刷人宇野猪子部、編集人池上次郎四郎により創刊。発行部数は22年3968部、23年1940部。第1回総選挙に向けて県内自由派機関紙として10月10日発刊される第2次「福井新聞」発刊後はその存在意味が薄れる。40月10日、丹南三郡委員会及び足羽・吉田両郡と坂井郡における杉田ブレーンによる南越倶楽部設立への動きが活況を呈し、15日、越前7郡大同団結派集会が、各郡委員3人以上の出席のもとに福井市の五岳楼で開かれる。規約16ヶ条を議定、予定通り南越倶楽部大会(各郡委員の総会)を、仮会頭杉田・副会頭山本喜平を推薦、5月25日に開催すること、山形での東北十五州会と東京での大同派大会への派遣委員を決定。南越倶楽部は大同倶楽部(政社派)の地方組織として旗色鮮明にする。但し、杉田は療養のため福井を離れ、25日の大会は欠席、そのこともあり、大会は7郡委員会として開かれる。7月28日正式発足。

3月30日

・浦和重罪裁判所、スパイ容疑照山俊三殺害に関して一旦無罪後、有期徒刑12年宣言

3月31日

パリ万博のシンボル、エッフェル塔完成

4月

星亨、大赦の対象となり官吏侮辱罪・出版条例違反は消滅するが、一般刑事犯としての罪人隠避罪は適用外となる第1回総選挙には出馬できず。この月、かねてよりの計画により2度目の欧米旅行に出る。

16日間でバンクーバー着。大陸横断鉄道で、トロント~オタワ~モソトリオールなどカナダ東部の都市を回遊。数週間をカナダで過し、義弟野沢と別れ、ニューヨーク~ワシントンに赴く。アメリカ滞在3ヶ月、明治22年9月ロンドンに渡る、滞在2ヶ月。年末、ベルリンに移う。滞在3ヶ月。一時ロンドンに戻り、パリ~ローマに夫々2ヶ月滞在、アメリカ留学を終えた野沢と合流。明治23年8月末、マルセイユから乗船。10月初、横浜着。

4月

北村透谷「楚囚之詩」。大阪事件テーマ。春祥堂

4月

ドブロリューボフ、二葉亭四迷訳「文学の本色及び平民と文学との関係」(「国民之友」4、5月)

4月

尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』(吉岡書籍店『新著百種』シリーズ)。紅葉の処女出版。

紅露時代の幕開け


「それは雅俗折衷文で、時代小説で、これは言文一致の美妙の『武蔵野』に明かに挑戦した創作であった。

言文一致に不満の徒は、鯨波を造つて戦勝を祝したのであった。『日本』の陸羯南が非常に喜んだのも其一例で、後日、上野不忍の長駝亭で、香夢楼の追悼会のあつた時に、羯南が自分に紅葉へ紹介して呉れと云ひ出した位であった。」(江見水蔭『自己中心明治文壇史』)

4月

与謝野鉄幹(16)、山口県徳山の次兄照幢の許に身を寄せ、照幢の経営する徳山女学校で国語・漢文を教える。傍ら「山口県積善会雑誌」編集に従事。教え子に浅田信子・林瀧野。この年、西本願寺で得度、法号を「礼譲」とする。

4月

高知市成立

4月1日

福井市制、施行。

前年の明治21年4月25日「市制」公布され、7月より第92国立銀行が発起し、実業界を中心とした有志の集会がもたれ、市制実施施行委員を選び、市長・参事会員候補者を協議し、11月には市会議員候補者の予選会を行い当選者110人を発表。

22年2月2日、福井はじめ全国36ヶ所を市制施行地に指定。20日、県は、月見町外85ヶ町及び石場畑方を市制区域とし、4月1日よりの市制実施を布達。全国で22年中に市制施行したのは39市。

4月20日~3日間、市会議員選挙が3級の等級選挙で行われ、30人の市会議員を選出。任期6年、3年毎に半数改選。5月1日、第1回市会、足羽吉田郡役所で開かれ、議長永田重、議長代理者片山平三郎が選ばれ、市長候補鈴木準道(最高得票)、佐々木千尋、山田卓介3人が選ばれる。27日、松平家の家扶の鈴木準道の市長就任(年俸600円)が認可れ、翌月12日着任。助役には前足羽吉田郡書記の牧野四郎(年俸360円)が、収入役には大区長、県吏員、連合戸長を歴任してきた杉山敬介(月俸15円)が選任。尚、鈴木をはじめ明治・大正期の市長5人全ては、旧福井藩士。7月には、「市役所処務規程」が制定され、庶務・戸籍・兵事・学務・衛生・勧業・地理土木・国税・地方税・市税・用度11掛がおかれ、8月には元桜小学校を庁舎として事務開始。 

4月1日

フランス、ブーランジェ将軍クーデタ未遂

4月7日

大井憲太郎(45)、横浜初音町東耘楼で開かれた大赦出獄諸氏慰労懇親会に、星亨・井上哲次郎らと共に出席。

4月10日

中村是公が、隅田川で行われた帝国大学春期ボート大会の一高対高等商業学校競漕に一高の整調として出場、一高が勝利し、報奨金をもらい、漱石にアーノルド論文とシェークスピアの「ハムレット」を買ってやった(『永日小品』「変化」)。

4月11日

甲武鉄道、新宿・立川間営業闘始。8月11日、八王子まで延長。

4月11日

オーストリア、新国家法成立。二重帝国全体の陸海軍、オーストリア国防軍、ハンガリー国防軍の3つに分けられ、ハンガリー国防軍ではマジャール語またはクロアチア語使用が認められる。

4月16日

イギリス、チャップリン誕生

4月17日

ゴッホ弟テオ、オランダでヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー)と結婚。

パリで新婚生活。アルルで制作を続行することは最早不可能あったが、パリへ戻ってテオの生活を乱すわけにもゆかない立場に追い込まれたヴィンセントは、いつ神経の発作が襲うかという不安をかかえ、自らを精神療養院の中へ閉じこめる道を選ぶ。

4月20日

アドルフ・ヒトラー、オーストリア北部のブラウナウで誕生

母異兄姉アロイス2世とアンゲラ。父アロイスは1837年6月シュトローネスでアンナ・シックルグルーバーの私生児として誕生(このため後にヒトラーにはユダヤ人の血が流れているとの説を生む)。父アロイスは学歴が無いが勉学に励み出世を重ね、75年オーストリア・ハンガリー帝国税関吏。家計は豊か。76年アロイスは育ての親ネポムク・ヒードラーに一族の子として認知され、シックルグルーバー姓をヒトラー姓に変える。母クララは60年8月生まれ、85年にアロイスの3人目の妻となる。クララはアドルフを含めて6人の子を産むがアドルフ、パウラの2人だけが成年に達する。92年父親の昇進により、一家はドイツのパッサウに移る。94年弟エドムント誕生。95年オーストリア、リンツ近郊のハーフェルトヘ移り、アドルフはリンツのフィシュルハム小学校に入学、成績は優秀。96年妹パウラ誕生。97年ラムバッハに移る。98年レオンディングに移る。1900年役人にしたい父親の反対を押してリンツ上級実科学校に入学も留年。弟エドムント没。03年1月役人を引退していた父アロイスが肺出血で没。04年シュタイル上級実科学校へ転校、国語・数学の成績不良、呼吸器系疾患のため05年退学。リンツへ移る。06年音楽家志望の友人アウグスト・クビツェクとオーストリアのウィーンヘ上京。リヒャルト・ワーグナーに傾倒し食費を削ってオペラを観劇、大量の読書をこなす。

4月22日

ベンジャミン・ハリソン大統領、オクラホマ地方インディアン領有地開放、土地争奪戦が始まる

4月23日

石阪昌孝、村野常右衛門を保証人、宅地・建家を抵当に、小嶋守政から1194円を借用。

4月26日

高野房太郎(20)「米国桑港通信」(「読売新聞」)。

4月27日

原敬(33)、農商務省参事官就任。明治23年1月13日岩村大臣秘書官。5月20日陸奥宗光大臣秘書官(約1年11ヶ月)、7月11日参事官兼任。24年8月16日大臣官房秘書課長。

4月20日

菅原伝(菅奥州の筆名)「魯独英米仏五国の内閣を論評して日本二十三年後の内閣に及ぶ」(「第十九世紀」~6月14日)。明治憲法条文を論評。5ヶ国の内閣制度を比較、日本の内閣に対する政府見解を批判。

4月30日

大同団結世話人会。関東・愛知の大同協和会(非政社派)と関西・東北の大同倶楽部(政社派)とに分裂。大隈の入閣と大赦による出獄者の運動参加が分裂原因。杉田定一の南越倶楽部は大同倶楽部の地方組織として旗色を鮮明にする。


つづく



0 件のコメント: