1889(明治22)年
2月
陸軍大臣命令により月曜会解散。兵学研究の自由禁止。
2月
幸田露伴『露団々』(「都の花」連載~8月)
「『露団々』が世に出るまでの経緯は、明治文学史の中で、一つの伝説的エピソードとして語られて来たい淡島寒月、依田学海という、二人の、素晴らしい黒幕の連係プレーによる。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲』)
「この作を草してゐるのを淡島寒月氏が聞いて、何でも面白いものを書け、面白くさへあれば自分が依田学海に紹介して何処かの書肆(しょし)に出版さしてやるからといぶ。依田学海は当時の文壇の長老、硬軟両文学の耆宿(きしゅく)であり、その一顧は正に文壇の登龍門たる価値をもつてゐた。かくていよいよ「露団々」が成るや、寒月氏は一読して奇と称へ、約束通り学海に紹介してくれた。」(柳田泉「露伴研究」『随筆明治文学』)
内田魯庵「露伴の出世咄」(『思い出す人々』)
「ある時、その頃金港堂の『都の花』の主筆をしていた山田美妙に会うと、開口一番「エライ人が出ましたよ!」と破顔した。
ドゥいう人かと訊くと、それより数日前、突然依田学海翁を尋ねて来た書生があって、小説を作ったから序文を書いてくれといった。学海翁は硬軟兼備のその頃での大宗師であったから、門に伺候して著書の序文を請うものが引きも切らず、一々応接する遑(いとま)あらざる面倒臭さに、ワシが序文を書いたからッて君の作は光りゃアしない、君の作が傑作ならワシの序文なぞはなくとも光ると、味も素気もなく突跳(つっぱ)ねた。
すると件の書生は、先生の序文で光彩を添えようというのじゃない、我輩の作は面白いから先生も小説が好きなら読んで見て、面白いと思ったら序文をお書きなさい、ツマラナイと思ったら竈(かまど)の下へ燻べて下さいと、言終ると共に原稿一綴を投出してサッサと帰ってしまった。
・・・・・
(この若者は)風采態度が一と癖あり気な上に、キビキビした歯切れのイイ江戸弁で率直に言放すのがタダ者ならずに見えたので、イツモは十日も二十日も捨置くのを、何となく気に掛ってその晩、ドウセ物にはなるまいと内心馬鹿にしながらも二、三枚めくると、ノッケから読者を旋風に巻き込むような奇想天来に有繁(さすが)の翁も磁石に吸寄せられる鉄のように喰入って巻な釈く印が出来ず、とうとう徹宵して竟(つい)に読終ってしまった。」
これは大変な作品だ。紹介者の淡島寒月を尋ねると、作者は「幸田露伴というマダ青年の秀才の」処女作であることがわかった。
「翁は漢学者に似気(にげ)ない開けた人で、才能を認めると年齢を忘れて少しも先輩ぶらず対等に遇したから、さらぬだに初対面の無礼を悔いていたから早速寒月と同道して露伴を訪問した。老人、君の如き異才を見るの明がなくして意外の失礼をしたと心から深く詫びつつ、さてこの傑作をお世話したいが出版先に御希望があるかと懇切に談合して、直ぐその足で金港堂へ原稿を持って来た。」
2月1日
石橋正二郎、誕生。ブリジストン創始者。
2月1日
新聞「大日本」発行。発行所アンアーバー、主筆南方熊楠(福田友作の代わりに引受けた?)。
2月4日
パナマ運河会社が倒産。パナマ運河計画が挫折
2月5日
第一高等中学校第2回英語会(私会)で漱石が "The Death of My Brother" を、子規は "Self-reliance(自恃)" を朗読、発表。漱石は原稿を見ないで話す。
2月7日
ゴッホ、再び発作を起こして入院、一時退院したものの付近の市民の要請もあり、以後、病院暮らしを余儀なくされる。
2月9日
社説「憲法発布についての愚衷」(中江兆民)(「東雲新聞」)。
国家の骨格である憲法制定、公布までもってきたのは、生命をも賭した自由民権運動家の苦闘のたまものだと、重刑を受けた活動家への大赦を求める。
中江兆民「憲法の発布は吾邦古今未曾有の慶事なり」(「東雲新聞」「放言」欄)。欽定憲法に自由民権運動の成果をみようとするが、真の狙いは自由民権運動の闘士たちの大赦。
「旧日本と新日本」を画し、「旧来の日本にては君主独り太陽にて自己の光輝を所有し人民は暗体の星にて僅に光輝を太陽に仰ぎしも今後の日本にては人民も皆相応の光輝を所有して君主の太陽を輔けて他の万邦と共に全世界の光を増すこと」である。しかし、文中には、憲法発布で「仮令ひ間違にて却て幸福の高は或は減ずること有るにもせよ最早芒々たる嬰児に非ず」とあり、欽定憲法は人民の幸福に結びつくものではないとみる。兆民の狙いは、「箇程目出度き事柄なる憲法発布の今日なれば彼の赦令の如きも成るべくは特赦に非ずして大赦ならんことを望むことなり」と言うにある。「隠謀叛乱は悪事には相違なし然ども是れ皆旧来暗黒の日本にて為したる事故今後光明の日本にて問う可き事には非ざるに非ずや」という。
2月9日
社説「憲法批判に注意せよ」(「大阪公論」)。
「予て世人の知りたる如く、帝国憲法は欽定憲法にして、之に対し漫りに容喙する時は、其結果たる此祝すべき当日に於て、候然として青天に霹靂を聞くの不幸あらんも知るべからず、・・・東風漸く到り、堅氷将に融けんとする初春の長閑なる候に方り、忽然として天上より雷の落ち来る如きは、下界の人士の希はざる所なり。故に当日は大白を引くも好し。歌を謡ふも好し、躍るも好し、否演説を為すも好しと雖も、其演説には成るべく注意して、時ならぬ落雷を避ざるべからず・・・」。
2月9日
「ベルツの日記」、「東京全市は、十一日の憲法発布をひかえて、その準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉祝門、照明、行列の計画だが、滑稽なことには、誰も憲法の内容をご存知ないのだ」。
2月9日
俳優組合、結成。正頭取市川団十郎。
2月10日
社説「憲法発布の盛典に就ての人民の喜悦」(中江兆民)(「東雲新聞」)。
「愛婦の出産に臨みて、未だ娩出せざるに早く是れ男児を生むならんと思量して歓乎踊躍する主人翁と或は相似たる無きや」「葛籠の重きを愛でゝ必定財宝の充満し居る可しと想像し、呼息奄々として担ぎ来り家に帰へり蓋を取り、妖怪の百出せるを見て俄に絶倒したる慾張婆の如きは、彼れ等の望む所には非ざるなり」。
2月10日
『風俗画報』創刊(大正5年4月廃刊)
2月11日
大日本帝国憲法発布。主権在君。天皇に無制限の大権を与え、人民の基本的人権を制限、議会にも権力を与えず。
第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第4条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攪(そうらん)シ、此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」、第11条「天皇は陸海軍を統帥す」、第12条「天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む」。第13条「天皇は交戦を宣告し和戦並に条約を締結す」。
青山練兵場の観兵式に出席の明治天皇を宮城正門で迎えた小学生らが万歳を三唱(万歳三唱の始り)。栃木県会議長田中正造、内務省に建言し、府県会議長の「参観」を「参列」に認めさせる。彼の郷里に宛てた手紙には「空前絶後の大典たる憲法発布の盛式に参列の栄えを得」や、「市民等狂喜止まず」とあり。
「東京朝日」の干河岸貫一は、発信11回、1万1317字の憲法の電文を「大阪朝日」に送る。「本社は早朝に(憲法)原文を手に入れたので、直ちに大阪に打電して世人を驚かせた」(村山社長の回顧)。「東京日日」社長関直彦は早朝、憲法正文を入手、東京での号外戦に圧勝。
雪景色の宮中正殿で午前10時から帝国憲法発布式典。東京府下新聞・雑誌社互選で代表10社の「拝観」が認められ、「時事」津田興二、「東京日日」関直彦、「読売」高田早苗、「朝野」吉田嘉六、「毎日」肥塚竜、「東京公論」(年間68万部)村山龍平が選ばれる。この頃、まだ大新聞が主流との意識強く、小新聞とされる「東京朝日」(570万部)は選の対象にならず。
兆民の帝国憲法に対する率直な感慨(幸徳秋水「兆民先生」明治35年)。
「憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯だ苦笑する耳(のみ)」。「見よ、吾人は憲法に於て何の与へらる同じ所ぞ、議会は何の機能か有る。内閣は議会に対して何の責任なきに非ずや、上院は下院と同一の機能を有するに非ずや、内閣は常に政党以外に超然たるに非ずや、条約の訂結は議会の与り知らざる所に非ずや、宣戦講和は民人の与り知らざる所に非ずや、予算協賛の権は上院の為に其半ばを奪はるゝに非ずや。若し如此くんば我議会は独り民権伸長の具となすに足らざるのみならず、他日徒らに政府の奴隷たるに了らんのみ、内閣の爪牙たるに了らんのみ、腐敗堕落に了らんのみ。吾人は直に憲法の改正を請はざる可らず」。議会最初の仕事は、「恩賜的民権」を「進取的民権」に変えていくことであるとし、国会による憲法の点閲要求に乗り出していく。
2月11日
式典出席に出ようとして文相官邸にて森有礼(43)暗殺。腹部を刺され翌朝絶命。伊勢神宮参拝の折に不敬の振舞があったと憤る西野文太郎(山口県人)に刺殺。犯人はその場で斬殺される。
2月11日
大赦令、公布。民権運動家・政治犯(国事犯)の多くが出獄、政治運動復帰。関東中心・自由党急進派の指導者大井憲太郎ら。保安条例以降、運動の中心となっていた穏健派による大同団結運動の危機に繋がる。3月2日、「国民之友」は社説「大赦に遇て出獄したる人について」で、事情が分かるまで政界復帰を「今暫し待ち給え」と忠告。
2月11日
衆議院議員選挙法公布。15円以上の直接国税納税者の男性で25歳以上に選挙権、30歳以上に被選挙権。投票方法は記名投票。小選挙区制。地主層を基盤とする政治体制を保障するための選挙法。第1議会以降、納税資格の引き下げを求める提案が出され、日清戦争後には納税資格の撤廃を要求する普通選挙運動が起こる。
2月11日
皇室典範制定。
2月11日
陸羯南、新聞「日本」創刊。「国民精神の回復発揚」を任務とする。部数1万以上。出資者は谷干城・浅野長勲。陸羯南周辺には、福本日南・杉浦重剛・千頭清臣・高橋健三ら、やがて三宅雪嶺・池辺三山も参加。
2月11日
子規、新聞『日本』創刊号を読む。
「朝起きて見れば一面の銀世界、雪はふりやみたれど空はなは曇れり。余もおくれじと高等中学の運動場に至れば早く已に集まりし人々、各級各組そこここに打ち群れて思ひ思ひの旗、フラフを翻し、祝意法発布、帝国万歳など書きたる中に、紅白の吹き流しを北風になびかせたるは殊にきはだちていさましくぞ見えたる。二重橋の外に鳳輦(ほうれん)を拝みて万歳を三呼したる後余は復(また)学校の行列に加はらず、芝の某の館の園遊会に参らんとて行く途にて得たるは『日本』第一号なり。その附録にしたる憲法の表紙に三種の神器を画きたるは、今より見れば幼稚ともいへ、その時はいと面白しと思へり。それより余は館に行きで仮店太神楽などの催しに興の尽くる時もなく夜深けて泥の氷りたる上を踏みつつ帰りしは十二年前の二月十一日の事なりを。十二年の歳月は甚だ短きにもあらず『日本』はいよいよ健全にして我は空しく足なへとぞなりける。その時生れ出でたる憲法は果して能く歩行し得るや否や。」(子規『墨汁一滴』)
2月12日
社説「日本国会縁起」(福沢諭吉)(「時事新報」~22日)。
「我日本の国会開設は外の人民より迫られたるに非ずして、政府部内の冀望に原因して発したるものと云はざるを得ず。即ち今の政府にある旧藩の士族等が、士族社会同胞の都合に迫られ、様々の行路を経て遂に此挙に及びたることなれば、其事情全く西洋諸国の先例に異るを見る可し」。士族の願望から生まれた国会だから、在朝在野の士族の討議の場となり、国民の9割の平民に関わりはないが、やがて第一に金力、第二に智力に権力が移る、という福沢の見通し。
2月14日
景山英子出獄。憲法発布恩赦。17日、大阪梅田駅着。歓迎・祝賀(自由民権の闘士と「国士」として扱いが混ざる)。大井・小林・新井の3人は4日後れて大阪着。大井の申し出により結婚を承諾。26日、岡山着。
2月16日
森有礼の葬儀(青山斎場)。漱石らは鉄砲を担いで竹橋内で整列させられ棺を送る。
「憲法発布は明治二十二年だつたね。その時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。幾年かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であつた。大臣の葬式に参列するのだと云つて、大勢鉄砲を担いで出た。墓地へ行くのだと思つたら、そうではない。体操の教師が竹橋内へ引張つて行つて路傍へ整列さした。我々は其処へ立つたなり大臣の柩を送る事になつた。名は送るのだけれども、実は見物したのも同然だつた。その日は寒い日でね、今でも覚えている。動かずに立つていると、靴の下で足が病む。隣の男が僕の鼻を見ては赤い赤いと云つた。やがて行列が来た。何でも長いものだった。寒い眼の前を静かな馬車や俥(くるま)が何台となく通る。」(『三四郎』の中の広田先生の話)
「それに参列する行列を路傍で見送る時に、美しい娘を見染める。
「其當時は頭の中へ焼き付けられた様に、熱い印象を持ってゐた ー 妙なものだ」(『三四郎』十一)とも書いている。(創作か事実か分らぬ)」(荒正人、前掲書)
2月17日
名古屋市上前津の長松院で国事犯出獄者歓迎会開催。
「大阪事件出獄者は、大井憲太郎、小林樟雄、新井章吾、館野芳之助その他。飯田事件出獄者は、村松愛蔵、八木重治、川澄徳次その他を主賓とし、来会者は、国島博、祖父江道雄、岡田利勝、渋谷良平、清水平四郎、鈴木滋、白井菊也、後藤文一郎、江川甚太郎、佐藤琢次、荒井太郎、山田才吉、富田耕治、川口代助、石原烈、福岡祐次郎、田島任天、鈴木滋、藤田鉞太郎、服部雅常、磯部松太郎、宇佐美庄次郎、大杉茂生、小原小金吾、鈴木巳之作、奥村哲次郎その他三百余人発起人総代福岡祐次郎の痛快なる歓迎の辞に対し、大阪事件代表新井章吾の答辞は当時十八歳の青年志士小久保喜七代読し、飯田事件代表八木重治の謝辞あり、爆薬製造中発火し、一眼隻手を失った館野芳之助は壮烈なる感想談を試み記念の撮影を為し、凱旋将軍を迎うるが如く、意気冲天の感を以て散会した。」。
2月18日
ローザ・ルクセンブルク、ドイツ・ポーランド国境を越えスイスに亡命、この日、チューリッヒのオーバーシュトラースネルケン通り5番地 、後、大学通り79番地の転借人として登録。
2月20日
大隈外相の条約改正。この日、アメリカと調印。6月11日、ドイツと調印。続いてロシアと交渉、順調に進展。
改正案の要点は、①条約実施5年後に居留地の治外法権を撤廃、②2年以内に刑法、民法などの法律を改正、公布、③大審院に外人裁判官を任用、④条約の有効期限を12年とする、など。一度葬られた前外相井上馨案と軌を一にするが、大隈は井上と違って国別交渉の方針を進め、極秘で行った為、日本の新聞は気づかず、3月7日付英「タイムズ」が初めて報道し、その内容が5月下旬日本に送られてきた東京特派員発「タイムズ」の記事でわかる。
2月22日
内務省、全国36ヶ所を市制施行地に指定。
2月28日
宮武外骨(23)「頓智協会雑誌」28号、「大日本帝国憲法」を笑いのめす。3月4日発行停止。
玉座に骸骨(外骨のもじり)を立たせた図に「骸骨が研法を下賜する図」(安達吟光絵)という説明をつける。「大日本帝国憲法発布の勅語」をもじり、「研法発布囈語」を書き、「大日本帝国憲法」にならう「大日本頓智研法」を定めて、これを掲載。「天皇への不敬罪」に問われ、外骨は東京軽犯罪所で重禁鋼3年罰金100円を言渡され、大審院まで控訴するものの上告を棄却され入獄。
安達吟光もまた罰金50円重禁固1年の刑に処せられたが、公判の際に法廷で外骨は、「元来画工は編輯人と性質を異にするものなれば新聞紙条例第二十四条を適用したるは擬律の錯誤なり」と一時間半にわたって、「画工安達吟光の罪を軽絨するために弁論を行った」(木本至『評伝宮武外骨』)。
「『頓智協会雑誌』にその憲法発布の式場に擬した頓智新法発布の図を掲げ、帝国憲法に擬した頓智研法と云うのを掲げました、それで図は宮武外骨が会員を集めてその頓智研法を授くる体でした。それが普通の人物画であれば何でもなかったのですが、外骨を例のごとく骸骨で画いたので、天皇陛下に擬したるところへ白骨を画いたのは一種の寓意である不敬であるとて重禁錮三年の刑を言渡された・・・・・」(『新編 予は危険人物なり』)
「しかし外骨の石川島での三年間の獄中生活は、けっして無駄ではなかった。その三年間があったからこそ、彼は、今残されている形での宮武外骨になった。そしてその獄中で、彼はまた、のちの生涯で何度も世話になることになる大恩人瀬木博尚(博報堂の創立者)と出会うのだから。」(『七人の旋毛曲り』)
つづく
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