2024年2月6日火曜日

大杉栄とその時代年表(32) 1889(明治22)年7月 一葉(17)の父、病没 与謝野鉄幹、徳山女学校教師となる 東海道線全線開通 子規帰省 子規、 河東碧梧桐にキャッチボールを指導 陸羯南の新聞「日本」、「条約改正論熱度表」掲載

 


大杉栄とその時代年表(31) 1889(明治22)年6月 稲から米が出来るのを知らなかった漱石 漱石、学年試験・宿題などの子規の問い合わせに答える 「東京朝日」、大隈条約改正反対を表明 三木露風生まれる より続く

1889(明治22)年

7月

津田梅子、プリンマーカレッジ入学のため渡米。25年8月帰国。

7月

景山英子、上京

7月

植木枝盛、日刊「政論」主筆就任。政社派大同倶楽部系。この月、「土陽新聞」に条約改正は議会開催後にするべしと主張。

7月

二葉亭四迷「浮雲」第3編(「都の花」)7,8月。

7月

饗庭篁村「むら竹」(春陽堂)7~23・12

7月

与謝野鉄幹、山口県徳山の次兄赤松照幢のもとで徳山女学校の教師となる

○ここまでの鉄幹。

明治6年2月26日生。父礼厳と母ハツエ(初枝とも)の4男。礼厳は丹後国与謝郡温江村(現、加悦町)の細見儀右衛門の2男、浄福寺の礼道の養子となり、後、若狭国大飯郡高浜村専能寺の養子となり、8代目の住職となる。先代の4女絹枝(衣枝とも)と結婚、長女峰野、長男響天(誠とも)を儲けるが離婚、安政4年5月15日、山城国愛宕郡岡崎村願成寺に入り、8月6日、住職となる。礼厳は山崎惣兵衛(米穀商)長女ハツエと結婚、大円、照幢、巌、寛、修、静と5男1女を儲ける。大円は和田智満の嗣子、照幢は赤松連城の嗣子、巌は失踪、修は宮内庁に勤める。礼厳は僧、歌人、勤皇家、公益事業家であるが、自坊を持たない為、一家は放浪に近い移動(京都、鹿児島など)が頻繁となる。

鉄幹は一時、京都市間之町五条上ルの発願寺の鈴木忍宏の養子となり(異説あり)、明治17年6月、大阪府住吉郡遠里小野村の安養寺の安藤秀乗の養子となるが、鉄幹の才能を見抜いた藤枝慧眼の助けで養家を脱出、岡山の安住院の長兄和田大円の下に行く。岡山中学予備門に入り受験するが失敗、父母の下に戻り、同志社入学を志望するが断念、後、次兄赤松照幢を頼り山口県徳山の徳応寺へ行き、赤松家経営の徳山女学校教師となる。ここで後に同棲する教え子浅田信子と林滝野に出会う。

7月1日

東海道線、全線開通。新橋~神戸間20時間

7月3日

「報知新聞」(大隈支持派)、「条約改正問答」を連載。「日本政府が西人を使役するを憲法違反などと云うに至ては殆んど不論理の極と云うべし」と「東京朝日」など条約反対派の論調に反撃。

7月3日

子規、勝田主計に付き添われ郷里松山に帰省

夏休み中、閻魔大王と子規の対談「暗血始末」を作る。

河東碧梧桐にキャッチボールを指導


「函根つづきの山道の壮快なるは人の称する所なるが、其静閑にして俗気なき、随道の幾条となく連絡せる、渓河(たにがは)の屈曲して右に現はれ左に見ゆるなど、総て旅中の興を添ふる者のみなり。・・・此外ふじの見ゆる処は皆面白く、裾野をかけまはるも愉快なるが、最其(もつともその)景色の絵画的(ピクチユアルスキユ)なるは興津、江尻近傍より後をふりむき、富士をながめたる時なり。余は世界中斯の如き景色はまたなきものと恩ふなり。」(「道中の佳景」)


帰省してからしばらく気管支出血に悩んだ。出血は10日ほど続いてようやく止んだ。彼は毎日昼寝ばかりして暮さざるを得なかった。


「明治二十二年夏に帰省した子規は、伊予尋常中学(松山中学・愛媛県尋常中学)の生徒であった河東秉五郎に、その兄から托されたバットとボールを渡しがてらベースボールの手ほどきをした。河東秉五郎はのちの碧梧桐、子規より六歳下であった。彼の三兄檜三郎は母方の竹村姓を継ぎ、竹村鍛と名のって子規の二歳年長であったが、親友同士であった。

碧梧桐の父は儒者であった。その先輩にあたるのが子規の祖父大原観山であったから、子規を碧梧桐は早くから見知っていた。・・・・・

(略)

正岡家を訪ねた碧梧桐は、まずベースボールの「初歩の第一リーズン」の講義を受けた。そのあと表へ連れ出されて、球の受け方を実地にやらされた。硬球をグローブなしに受けるのだから、じきに手のひらが赤く腫れた。

難しいのは、むしろ球を投げ返すことだった。投げ方の加減がわからない。

投げるという動作自体がはじめてであった。それは日本人の生活中にまったく存在しなかった運動であった。いずれにしろ、これがのちに「野球王国」となる松山の野球の濫觴となった。」(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫) )

7月4日

法制局長官井上毅、黒田首相・大隈外相に「国民身分及帰化法意見」提出。行政権・司法権などの公権力は外国人には与えられないので、大隈新改正条約の憲法違反問題をクリアするためには、「国民身分及帰化法」を制定し公権力に係る外国人は日本に帰化させねばならないと説く。しかし、アメリカ・ドイツへの公文では外国籍裁判官でよいことになっており、井上はこの日、この意見書を元田永孚に送り意見を求める(元田の条約改正反対運動開始を期待?)。

7月5日

森鴎外(27)、兵食試験委員となる。24日、東京美術学校専修科の講師となり、美術解剖学を講じる。

7月5日

フランス、ジャン・コクトー、誕生

7月6日

ゴッホ、アルルを訪れる。10日頃、激しい発作に襲われ、7月中は錯乱状態が続く。

7月7日

林有造、大阪着。富豪三輪長兵衛(大阪府会議長)宅泊。幸徳伝次郎が訪問。兆民の書生をしている伝次郎に対し学問否定・経済万能論を説く。偶像破壊、伝次郎は内心これらを軽蔑

7月7日

漱石の友人橋本左五郎は札幌農学校を卒業し、7月7日、同校助教に任ぜられる。

更に1891年8月16日、札幌農学校助教授に任ぜられる。

7月10日

若松賤子(25)、巖本善治(25)と横浜海岸教会で結婚式。ブース師司会、中島信行・湘烟夫妻が証人として立ち会う。

7月12日

午後2時、一葉(17)の父則義(60)、病没。兄泉太郎に続く父則義の死は、一葉の生涯に大きな転機をもたらす。婚約関係にある渋谷三郎から破棄が通告される。

7月14日

伊藤博文、娘婿(次女の夫)末松謙澄内務省県治局長を井上馨のもとに派遣。辞職を思い止まるよう説得。

7月14日

第2インターナショナル創立大会開催。パリ、20ヶ国社会主義陣営代表

7月19日

閣議。山田顕義法相より新改正条約対応で「帰化法」適用意見書提出。決定せず。24日、元田永孚の進言により、伊藤博文が参内。帰化法について下問。元田はこの時の模様を井上毅に速報し、伊藤が改正条約に反対の感触伝える。この後、伊藤・元田は頻繁に連絡をとりあう。

7月23日

漱石、転地療養を命じられた直矩と共に興津を訪れ、水口屋、身延屋に滞在し海水浴などして過ごす。8月2日帰京。


「最初は水口屋と申す方に投宿せしに一週間二円にて誠にいやいや雲助同様の御待遇を蒙れり拙如き貧乏書生は『パラサイト』同様の有様御憫笑可被下候」


「炎暑之候、御病体如何被為渡候哉。日夕案じ暮しをり候とは些(ち)と古めかしくかたくるしき文句ながら、近頃の熱さでは無病息災のやからですら胃病か脳病、脚気、腹下シなど種々な二豎(にじゆ)先生の来臨を辱(かたじけの)ふする折からなれば、貴殿の如き残柳衰蒲(ざんりゆうすいほ)も宜しくといふ優にやさしき殿御(とのご)は、必ず療養専一摂生大事と勉強して女の子の泣かぬやう余計な御世話ながら願上候。さて悪口は休題としていよいよ本文に取り掛りますれば、小生義愚兄と共に去月二十三日出発、東海道興津へ転地療養のタメ御越し被遊昨二日夜帰京仕候。興津の景色の美なるは大兄も御承知ならんが先ヅ大体を申せば、

都城之西、六十余里、山勢隆然、抜地而起、・・・・・

〔都城の西、六十余里、山勢隆黙、地を抜きて起つ。・・・・・〕


余り長イト御退屈先ヅ先ヅ御里が露ハレヌ中ニ切り上ゲべク候。右の如く風光は非常に異な処ナレドモ、風俗ノ卑陋ニテ物価の高値ナルニハ英ニ恐レ入りタリ。・・・・・

先(まず)は炎熱の候時候御厭(いと)ひ可被成いづれ九月には海水にて真黒に相成りたる顔色を御覧に入べく、それまではアデュー。

                                菊井町のなまけ者

丈鬼兄 座右」

(正岡子規宛書簡(1889年8月3日付))

7月26日

伊藤博文・黒田清隆・井上馨3者会談。外国人法官任用を約束した公文を取り消し、実施期限を延期する線で再交渉と決める。

7月28日

早朝、大隈外相が伊藤を訪問。黒田首相の辞任表明を伝える。伊藤・井上ラインの牽制。29日、元田永孚、伊藤を訪問。参内するようにとの天皇の意向伝えるが、病気を理由に断る。条約改正交渉の是認・反対を明確にしないで、行動の自由を確保する為。

7月28日

杉田定一の「南越倶楽部」、正式発足。中央の大同団結との連携、杉田の中央での活動の後援会的役割、第1回総選挙への運動基盤の形成。

7月初、杉田は療養途中で帰県、南越倶楽部の勢力拡張の為、6日の丹生郡を皮切りに南条・今立3郡より遊説を始める。下旬には坂井・吉田・足羽郡。28日、遊説巡回の成果を基に、福井市三秀園で大会開催。各郡選出委員44人が出席、会則など決議、会頭・大同倶楽部常議員兼政費取調委員杉田定一、副会頭永田定右衛門、主計青山庄兵衛、坪田仁兵衛、理事松下豊吉、増田耕二郎、各郡1人の評議員に南条郡中山義樹、今立郡黒田道珍、丹生郡山本喜平、坂井郡山田穣、吉田郡五十嵐千代三郎、足羽郡加藤与次兵衛の各役員の選出、南越倶楽部は正式発足。

7月28日

官報局編集課長を辞した陸羯南が引き受けた新聞「日本」、条約攻撃派・弁護派などに色分けした「条約改正論熱度表」を掲載。

攻撃派:「東京公論」「東雲」「絵入自由」「関西日報」「朝日」「日本人」「時事新報」「中外電報」。

弁護派:「報知」「朝野」「毎日」「改進」「読売」。

7月29日

第2回「大体可否会」(民法典審議の元老院本会議)。内閣案が多数で可決。議官三浦安が拙速を批判、津田真道らが賛成するが少数意見。

7月30日

神奈川県倶楽部、石阪昌孝・天野政立2人を県下1市14郡有志総代として元老院に条約改正反対の建白書を提出。この頃、中止建白書は元老院の卓上山をなす有様。

つづく

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