2024年2月5日月曜日

大杉栄とその時代年表(31) 1889(明治22)年6月 稲から米が出来るのを知らなかった漱石 漱石、学年試験・宿題などの子規の問い合わせに答える 「東京朝日」、大隈条約改正反対を表明 三木露風生まれる 

 


大杉栄とその時代年表(30) 1889(明治22)年5月25日~31日 漱石、子規『七艸集』評で初めて「漱石」と署名 山本宣治・内田百閒生まれる 大杉栄(4)一家、東京麹町から新潟県北蒲原郡新発田本村へ移る より続く

1889(明治22)年

6月

植木枝盛、寺島宗則・副島種臣・福沢諭吉を訪問、条約改正反対運動工作。

6月

演芸場有楽館、落成。演劇改良会(末松謙澄・渋沢栄一ら)

6月

坪内逍遥(30)、心機一転を図って、大久保余丁町に購入した宅地に転居し、翌年2月に新築落成。

6月

小沢弁蔵・相田吉五郎ら西洋鍛冶の親方職人を中心に、石川島造船・海軍造兵廠・鉄道局などの旋盤・仕上・製缶・鍛冶・木型・鋳物労働者を組織、職業紹介・相互扶助・自立工場の建設を目的に同盟進工組を設立。自立工場は、職工志願者の技術訓練、失業中の会員に職場を与えることを意図する(後の工業団体同盟会と共通するものがある)。会計の不正を疑われ解散。会員の多くはには鉄工組合に参加、その中心メンバーとなる。

6月

稲から米が出来るのを知らなかった漱石


「二人が共に高等中学校にいた六月(ということは明治二十二年六月)のある日、子規が牛込喜久井町にある漱石の家を訪れ、二人で早稲田から関口の方に向って散歩に出かけると、ちょうど近くの水田に植えられたばかりの苗が風にそよいで心地よかった。その時子規が驚いたのは、漱石が、その苗から、つまり稲から、米が出来るのを知らなかったことだ。そのエピソードを紹介した一文(『墨汁一滴』に収録)の末尾で子規は、「もし都(みやこ)の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ」と書いている。」(『七人の旋毛曲り』)

6月

イスタンブール帝国軍医学校で秘密結社「オスマンの統一」、結成。創設メンバーは学生4人(アルバニア人1人、チェルケス人1人、クルド人2人)。オスマン・トルコ帝国をスルタン専制支配から脱却させるため全てのオスマン人を糾合しようと主張。

94年、国外の活動家を統合して「統一と進歩委員会」と改称。96年、弾圧により活動主体をパリに移す。海外では「青年トルコ党」の名で知られ、各国に支部を創設して活動を広める。 

6月

ゴッホ、戸外での自由な制作を許され、夏の日差しの中で、オリーブ園、麦畑、糸杉などをモティーフとする傑作を制作。生涯中、最も充実した創作期

6月

ゴーギャン(41)、~9月、パリ万国博覧会期間中、カフェ・ヴォルピニを会場にした「印象派および綜合派展」に参加し、作品17点を出品。

6月3日

漱石、漢作文「居移気説」を執筆

6月5日

この日付け漱石の子規宛ての手紙。この日以前に子規は漱石に対して学年試験や宿題について問い合わせている(手紙は紛失)。


「・・・・・御尋の数学試験は月曜にてはなく火曜日の午後一時よりのはずなり。物理の義に付ては山川、中山を始め丸善の大将も試験を頼まんと待かまへをれば御安心あるべし。久米先生は隅田看花、送古荘校長、教育論の三題中一題作れば平生点をくれる由、また学年試験は宿題読大八洲史といふ事なり。長沢は来々週の水曜日に平生試験をなす由、また学年試験の問題四十題ほどあり、その内御目にかけべく候。時間割は新しく御送付致候間、旧表と御対照有之べし。なは御快気の際決して軽ハヅミシテ後戻りし給ふべからす。摂生加養百年の寿を保ち千二百ページの白紙小説に過客の腹を穿(うが)ち「凄イネ」の喝采を得給へといふは君の親友なる

                                菊井の里 野辺の花

五日

明治の 神谷うたゝ 殿」


子規の学年試験や宿題などに答え、新時間割を送る。「猶御快気の際決して軽ハヅミシテ後戻り為給ふべからず」と、子規の病気を気遣う。

6月10日

社説「拙速よりは巧遅」(「東京朝日」)。大隈条約改正反対を表明。

大隈改正案が外国人領事による裁判の存続や外人裁判官の任用などの屈辱的な条項を残している以上、急ぐ必要はない、と反対の態度を明らかにする。

6月11日

大隈外相の条約改正。この日、ドイツと調印。続いてロシアと交渉、順調に進展。

6月14日

植木枝盛(32)、横浜に行き、海岸一致教会で開かれた、婦人矯風会演説会で演説。

6月14日

ベルリン3国会議。サモア諸島、独英米共同保護領となる

6月20日

ドイツ公使西園寺公望、伊藤博文枢密院議長に書状。日本への呼び戻しを嘆願。

公使館経費が少なく、妻を同伴していないので手当ても少なく、昨年来多額の借金をしている。日本への呼び戻しを嘆願。井上馨(元外相)にも、同様の手紙を出すが、実現せず。

6月22日

プロイセン、廃疾・養老保険法成立

6月23日

三木露風、誕生。

6月25日

神奈川県倶楽部常議員会、開催。監督中島信行、幹事森久保作蔵・志村慎一郎・天野政立、常議員(各郡選出)石阪派と紳士派・吉野派、また政社派と非政社派をバランス良くすえる(通信所を森久保作蔵と共に担っていた窪田久米は4月11日病没。石坂昌孝は常議員にも名を出さず。神奈川県倶楽部の実質的領袖であるが、表面からは身を引き大同の実現を図ろうとする)。

しかし、9月には早くも破産。17日、吉野は「北多摩郡正義派」を結成。18日、病気を理由に神奈川県倶楽部に対し脱会宣言(正義派メンバー54名を引き連れる)。


つづく

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