1891(明治24)年
11月
河島伊三郎を発行人とする雑誌「足利之鉱毒」創刊。たちまち発禁。
11月
漱石(24、東京帝大2年)、評論「文壇に於ける平等主義の代表者 ウォルト・ホイットマンWalt Whitmanの詩について」を発表。
11月
子規、武蔵野を歩き、俳句に開眼し、写実を旨に句を作るようになる。
11月
幸田露伴『五重塔』(『国会』連載~翌年4月)
11月5日
東京吾妻座、済美館旗揚げ公演。260年ぶりに女優が舞台に。
11月7日
11月7、10日 漱石、子規の「気節」論をめぐって手紙で論争。
以前数日の間(日不詳)、漱石、風邪をひいて気分すぐれぬ。子規から、破天荒斎(松平康園)著『明治豪傑譚』に「気節論」を添えて送られる。
「思ひ掛なき君が思ひがけなくも明治豪傑譚に気節論まで添へて御恵投あらんとは真以て思ひがけなく驚入候。・・・・・
豪傑譚は仰せの如く先頃中より『読売』紙上にて時たま閲覧仕をり候。その頃よりこれが豪傑の行為にやと不審を抱き候角も不少欣慕などと申す感情はさて置中には眉を顰(ひそ)めて却走せんと欲する件りも有之、・・・・・
小生元来大兄を以て吾が朋友中一見識を有し自己の定見に由つて人生の航路に舵をとるものと信じ居候・・・・・
其信じきりたる朋友がかゝる小供だましの小冊子を以て気節の手本にせよとわざ/\恵投せられたるはつや/\其意を得ず・・・・・
かく事実相反する以上は議論の土台と為り難し・・・・・
君の議論は工商の子たるが故に気節なしとて四民の階級を以て人間の尊卑を分たんかの如くに聞ゆ君何が故かゝる貴族的の言語を吐くや君若しかく云はゞ吾之に抗して工商の肩を持たんと欲す
(略)」(明治24年11月7日付子規宛書簡)
「僕が二銭郵券四枚張の長談議を聞き流しにする大兄にあらずと存をり候処、案の如く二枚張の御返礼にあづかり、金高よりいへば半口たらぬ心地すれど芳墨の真価は百枚の黄白にも優り嬉しく披見仕候。仰の如く小生十七、八以後かかるまじめ腐つたる長々しさ囈語(げいご)を書き連ねて紙筆に災ひせし事なく、議論文などは君に差上候手紙にもめつたに無之、唯君の方で足下呼はりで六づかしく出掛られた故つい乗気になり色々の雑言中上恐縮の至に不堪決して決して御気にかけられざるやう願上候。
(略)」(明治24年11月10日付子規宛書簡)
「第三の対立は、子規が『明治豪傑ものがたり』なる書物を「気節論」とともに送ってきたことに発した。今度は漱石が子規の考えに反発した書を送った(二十四年十一月)。読了後「寸毫も高尚だの優美だのと申す方向に導びきし点無之」、中には「嘔吐を催ふせしむる件りも有之」と手厳しい。咄嗟の気転や感情で難を逃れたり成功したりするのは、「気節」とは呼べないのではないか、自分は「大兄を以て吾が朋友中一見識を有し自己の定見に由って人生の航路に舵をとるものと信じ」できたが、なぜこんな「子供だましの小冊子」が気節の手本になるのか理解できない。ここにあるのは「抽象的の気節」で、「実体的の片言隻行」すらないと痛論する。さらに小学校では上席にある商工の子が、卒業後は士族の子に抜かれるという説や、賢愚よりも善悪によって人を量る態度にも漱石は反対である。その判断は情や意の領域であり、親孝行や忠誠のように「理」に従って生ずる「気節」は智に属する、と考えるのが漱石の主張である。人間には「片言隻行」ではわからない「気節」があり、どんな人間にも多少の善、または多少の悪がある。その小善、小悪だけですべてがわかったような気になるのは危険である、と彼は主張するのである。
子規はこれを見て再度自説を繰り返し、気節が現われるのは行為においてであると記したらしい。十一月十日の漱石書簡は、それに対する返答で、「気節は(己れの見識を貫き通す)事と申し上候積り 此(見識)は智に属し(貫く)(即ち行ふ)は意に属す 行はずして気節の士とは小生も思ひ申さず」と補足して妥協を図った。お互いを知ろうとした議論が、お互いの相違の確認で終わったことになるが、友情がそれによって損われることはなかった。高橋英夫『洋燈の孤影』(幻戯哲房)は、この二人の鴎外に関する議論について、「他人の混入による汚染を厳に排する友情の気密性」を感じ、「鴎外なる人物はこの場合、二人の友情空間の汚染者、破壊者であるかのように」子規には思われたのではないかと推測している。」(岩波新書『夏目漱石』)
「彼らのこのような違いは、単に「思想」と「レトリック」との問題に止まるものではなかった。それは、人間と人生とに対する姿勢そのものにまで及んでいる。明治二十四年、子規は、推賞の手紙とともに(この手紙は残されてはいない)、明治豪傑譚に自らの気節論を添えて贈っているが、漱石は、十一月七日付けの子規あての手紙で、これらを推賞する子規に対して、先の手紙を上まわる痛列な批判を加えている。当時の世相や風潮にうまく乗ったこの種の書物を簡単に受け入れてしまうことには、「レトリック」に身を委ねるのと相通ずる心の動きがあり、そこには子規の生れや育ちもかげを落しているようだ。だが、こういったことは、漱石には断じて受け入れられぬものだった。彼はこれらを細部にわたって徹底的に批判したのち、「小生元来大兄を以て吾が朋友中一見識を有し、自己の定見に由って人生の航路に舵をとるものと信じをり候。その信じきりたる朋友がかかる小供だましの小冊子を以て気節の手本にせよとてわざわざ恵投せられたるは、つやつやその意を得ず(中略)君何を以てこの書を余に推挙するや、余殆んど君の余を愚弄するを怪しむなり」と評するのである。
漱石の批判はこれだけには止まらない。子規は、これらの書物とともに書き送った手紙のなかで、土豪の子は学校時代は工商の子の後塵を拝しているが卒業したあとは逆にこれを抜き去ると述べているらしい。日常の見聞に対していささか無警戒に - つまりこのような判断に自分の出自がかげを落していることに気付かずに - 感想を述べただけだろうが、こういうことばが漱石の怒りを買わぬはずはない。「君の議論は工商の子たるが故に気節なしとて四民の階級を以て人間の尊卑を分たんかの如くに聞ゆ。君何が故かかる貴族的の言語を吐くや。君もしかくいはば、われこれに抗して工商の肩を持たんと欲す」と述べるのである。そればかりではない。漱石の要約によれば、同じ手紙のなかで子規は「僕は賢愚の差において人を軽重する事少し、しかれども善悪の違に至つては一歩もこれを仮さず云々」といった意味のことを語っているようだが、これまた漱石の眼を遁れることは出来ない。彼は、子規の、一見もっともらしく思えるこういう意見がはらむ観念性やひとりよがりを、厳密かつ痛烈に批判するのである。」(粟津則雄、前掲書)
11月9日
小泉八雲(ラフカディオ・ヘルン)、第五高等学校へ勤務(~明治27年12月30日)
11月10日
アルチュール・ランボー(37)、マルセイユのコンセプシオン病院で没。
11月14日
伊藤博文、山口に戻る。12月30日朝、下関出発。翌明治25年1月6日、小田原に到着。松方には協力しないという意志表示。
11月16日
横浜旧公道倶楽部で有志懇談会開催。神奈川県好徳勧義会会頭に石阪昌孝選出。この相談会で神奈川中央通信所を愛宕町から移転を決定。
11月17日
民党連合懇親会。結束強化の申し合わせ。自由党、改進党、自由倶楽部(土佐派)、巴倶楽部、民党に近い無所属議員が参加。板垣と大隈の会見も行われ、自由・改進両党が共同して政府に当たる方針が再確認される。
11月24日
一葉(19)、桃水を訪問。
午前11時、起床したばかりの桃水は、古びた綿入れの上にどてらを羽織り、うす汚れたしごき帯をしめた姿。うらぶれた男やもめの普段着姿の桃水とのさし向かいに、一葉は「汗あゆるこゝちす」という気分。
「例の人なき小室の内に、長火桶一ッ間に置てものがたりすることよ 我が学びの友達あるは親戚の人々などに聞かせ奉らんに何とかはそしられん、あやしかるべき身にも有哉。ましてかたみに語り合ふことなどいとまばゆしかし」(「よもぎふ日記」明24・11・24)
他人が見たら何と思うだろうかと考えながら、半ば警戒し恥じながら、また胸をときめかせてもいる。
この日、一葉は「片恋」をテーマにした新しい小説の構想について桃水に相談しようとする。一葉はそれを「心に決しては来たりしものから、何となくはなじろみて、爪くはるゝ心地しけるぞわろき」と、言い渋ったあげくに切り出す。
昼食が出され、食事をしながら桃水は「君はなど、さは打とけ給はぬ」と言う。一葉は「こはおのれが生(ショウ)ねにこそ侍れ」とすねる。「哀友とし給ひて隔てなくものし給へよ」と言えば、「そは今はじまりたることかは、おのれはたヾ師の君とも兄君とも思ふなるを」と答える。
一葉の本心は、師や兄を超えた恋心であるが、士族としての矜持と封建道徳を躾けられた一葉にとっては、心中の恋は、表にあらわすことなく秘めておくべきものであった。しかも戸主である一葉は、戸主として一家を構える桃水を結婚の対象として考えることはできない。一葉は本音を抑え、あくまでもたて前を通そうとする。
11月26日
第2議会開会。
議席数は自由党88、改進党43、自由倶楽部31、巴倶楽部23、大成会55.残りは独立倶楽部系か無所属議員。民党議員全体で過半数を占めるが、自由倶楽部は民党と共同歩調をとるとは限らず、無所属議員の動向が注視される。政府提出予算案は、歳入約8650万円、歳出8350万円。自由党は、官吏俸給などの政費、新事業費を対象とする歳出削減を党議とし、民党の賛成多数により、予算委員会は歳出約794万円削減を可決。海軍省所管予算中の建艦費と製鋼所設立費は、新事業費として全額カット。
11月27日
陸奥宗光、政治紙「寸鉄」発行。伊東巳代治の伊藤への報告によると、陸奥は自由党工作のために引出した機密費の残金を創刊費用に充てる。
11月29日
横浜公道倶楽部において板垣自由党総理を招いての懇親会開催。また、蔦座で演説会開催。石阪昌孝、出席。
11月29日
高野房太郎、ガントン「富と進歩 Wealth and Progress」購入。感銘受け翻訳を試みる。この後タコマへ戻る。
つづく
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