2024年3月1日金曜日

大杉栄とその時代年表(56) 1891(明治24)年10月 中嶋歌子に見て貰うための小説創作に苦労する一葉 一葉と妹くにが開橋したばかりのお茶の水橋を見に行く 近衛文麿生まれる 泉鏡花(18)、紅葉に弟子入り 逍遥(32)『早稲田文学』(第一次)創刊 濃尾地震(死者7,273) 桃水の勧めで筆名「一葉」を使い始める        

 

1891年10月15日、お茶の水橋開橋
同17日夕方、一葉と妹くには橋からの景色を楽しむ

大杉栄とその時代年表(55) 1891(明治24)年9月 田中正造の日記に「鉱毒」が出始める 上野・青森間鉄道全通 硫黄島を日本領とする 子規、ようやく追試に及第 一葉日記「蓮生日記」と改題 津田三蔵(38)獄死 より続く

1891(明治24)年

10月

自由党党大会開催。星主導の中央集権路線、再確認。前大会で6ヶ月と定められた党総理の任期は無期限とされ、諮問機関の参務会は廃止。大会出席者は代議士と各府県選出代議員2名とされ、党内における代議士の優位が決定的となる。

10月

秋 漱石、東京帝国大学文科大学英文科2年に進級。

この頃の様子。

私は大学で英文学といふ専門をやりました。其文学といふものは何(ど)んなものかと御尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だつたのです。其頃はヂクノンといふ人が教師でした。私は其先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作つて、冠詞が落ちてゐると云つて叱られたり、発音が間違つてゐると怒られたりしました。試験にはウオーヅウオースは何年に生れて何年に死んだとか、シエクスビヤのフォリオは幾通りあるかとか、或はスコットの書いた作物を年代順に並べて見ろとかいふ問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像が出来るでせう、果してこれが英文学か何うだかとい事が。英文学はしばらく措いて第一文学とは何ういふものだが、是で到底解る筈がありません。

それなら自力でそれを窮め得るかと云ふと、まあ盲目の垣覗きといつたやうなもので、図書館に入つて、何処をどううろついても手掛がないのです。是は自力の足りない許でなく其通に関した書物も乏しかつたのだらうと思ひます。兎に角三年勉強して、遂に文学は解らずじまひだつたのです。私の煩悶は第一此所に根ざしてゐたと申し上げても差支ないでせう。(「私の個人主義」)

10月

この月、中嶋歌子に指導を求めようとした一葉は、桃水の指導を無視して和文調の作品「枯れ尾花一もと」「棚なし小舟」(甲種)を制作。

10月

アイルランド民族運動家バーネル、没。アイルランド民族運動における自治運動終る。

10月

「愛国」発刊。在米日本人愛国同盟機関誌「第十九世紀」が弾圧でつぶれ、「自由」が発刊。明治23年~24年、「自由」論調は次第に国権論に移行。定期公演会でも「日本ノ独立ヲ如何セン」「東洋論」などが演題。「自由」の内地輸入が禁止され「革命」が後を次ぐが1号で発禁、「愛国」発刊となる。

10月1日

フランツ・ヨーゼフ、プラハで開催のベーメンの博物会に出席のためプラハ入り。直前に鉄道橋爆破事件。

10月4日

この日の一葉日記。

「待合といふものはいかなる物にや、おのれは知らねど、只もじの表よりみれば、かり初(ソメ)に人を待合はすのみの事なめりとみるに、あやしう唄女など呼上て、酒打のみ燈あかうこゑひくゝ夜更るまで打輿ずめり。・・・地そ軽減をとなふる有志家、予算の査定に熱中する代議士、かゝる遊びに費やすこがねのをしからずとは、不学不識のもののしれがたき事にこそ。」

10月7日

この日の一葉日記。

「七日快晴。午前、髪すましぬ。弔午後より文机に打むかひて、文どもそこはかとかいつゞくるに、心ゆかぬことのみ多くて、引さき捨引さき捨することはや十度にも成ぬ。いまだに一篇の文をもつゞり出ぬぞいとあやしき。早うものし初たるなむ師の君(*中島歌子)に一回丈添刪を乞いたるあり。そがつゞきをつゞらぼやと思ふに、我ながらおもしろからで、かうは引やりつるなれどさてしはつべきならねば別に趣向をもうけなどして又つゞり出るに、夫もこれもいとったなし。昔し今の名高さ物語も小説もみる度に我筆我ながらかなしう成て、はてはては打も捨まほしけれど、中々に思ひ初つることえやむまじきひが心にをこがましけれど、又つゞしり出ぬ。あさて迄にはかならず作りはてん。これ作りはてねば死なんとおもふも心ちいさしと笑ふ人はわらひねかし」(「蓬生日記」明24・10・7)

(七日。快晴。午前、髪を結う。午後、机に向かい書きものをつづけるが、思うように書けず、破り捨てることが十回にもなった。それでもまだ一つの作品も出来ないのは情けない。以前に書いたものを歌子先生に一度だけ添削してもらったのがある。その続きを書こうと思うのだが、我ながらうまく書けず、こんなに破り捨てたりしているのです。これではいけないので、別に小説の構想を考え直して書き出してみたのですが、どれもこれもつまらない。古今の有名な物語や小説を見る度に、自分の文章のまずさが我ながら悲しくなり、最後には皆やめてしまいたいと思うのですが、なかなか思いをかけてきた文学のことは断ち切ることが出来ないのです∩ 才能もないくせに、身の程知らずの愚かな事ですが、またまた物を書き続けているのです。あさってまでには必ず書きあげよう。これを書きあげる事が出来ないなら、いっそ死んでしまおうと思うのです。こんなことを気が小さいといって笑う人は、どうぞ笑って下さい。


「八日快晴。午前清書、午後作文。『十八史略」及び『小学』を読む。・・・」

十七日 ・・・

今宵は旧菊月十五日なり。空はゞみ渡す限り雲もなくて、くずの葉のうらめづらしき夜也。「いでや、お茶の水橋の開橋になりためるを、行みんは」など国子にいざなはれて、母君も、「みてこ」などの給ふに、家をば出ぬ。あぶみ坂登りはつる頃、月きしのぼりぬ。軒はもつちも、たゞ霜のふりたる様にて、空はいまださむからず、袖にともなふぞおもしろし。行々て橋のほとりに出ぬ。するが台のいとひきくみゆるもをかし。月遠しろく水を照して、行かふ舟の火かげもをかしく、金波銀波こもごもよせて、くだけてはまどかなるかげ、いとをかし。森はさかさまにかげをうかペて、水の上に計(バカリ)一村(ヒトムラ)の雲かゝれるもよし。薄霧立まよひて遠方ほいとほのかなるに、電気のともし火かすかにみゆるもをかし。「いざまからん」と計(バカリ)いひて、かくもはなれ難きぞ、いとわりなき。「またかゝる夜いつかはみん」など語りつれつゝ、するが台より太田姫いなりの坂を下りてくるほど、下よりのぼりくる若人の四たり計、衣はかんにて出立さはやかに、折にふれたるからうたずんじくる。「哀(アワレ)、おの子ならましかば、我もえたえぬ夜のさまよ」とて国子のうら山しげにいふもをかし。・・・」

(今夜は旧暦九月十五夜である。空は見渡す限り雲もなく、珍しく晴れ渡っている。お茶の水橋が開通になったらしいので、さあそれを見に行こうと邦子に誘われ、母上も「見ておいで」とおっしゃったので、家を出た。

鐙坂を登り切る頃、月が出た。軒も大地も一面に霜が降りたように真っ白で、空気はまだ寒からず、月が一緒に連れだって歩くのも面白い。月光は白く川を照らし、行き交う舟の灯が水に映り、金波銀波がよせてはくだけ、安らかな光も大そう美しい。森はさかさまに姿を映し、時々水の上だけ雲がかかるのもよい。薄霧が所々に立ち、遠方は電灯の灯がぼんやりとかすかに見えるのも面白い。もう帰ろうと言いながらも立ち去り難いのもやむをえない気がする。二度とこんな美しい夜景を見る折があるだろうかなどと、話しながら連れだって、駿河台から太田姫稲荷の坂をおりてくると、下から登ってくる青年四人ばかりに出逢う。着物は簡素でさっぱりとして、漢詩を吟じながら来るのがこの情景にぴったりした感じでした。「あゝ、私も男だったらなあ。女であっても黙っていられない程の夜景ですよ」と邦子が羨ましそうに言うのも面白い。・・・)


「廿日 晴。何事もなし。図書館に行。」

「廿一日 晴。同。」


10月12日

近衛文麿、誕生。

10月14

ドイツ、社会主義者鎮圧法失効後、社会民主党の再出発のためのエルフルト党大会「ゴータ」綱領破棄、マルクス主義「エルフルト」綱領採択。「生産手段の私的所有の社会的所有への転化」を述べたカウツキー起草の理論的前半部と当面の諸要求を掲げたベルンシュタイン起草の実践的後半部から成り、この両者を媒介する革命戦略規定を欠き、その解釈をめぐり党内に意見対立を生み出す。

10月19日

泉鏡太郎(鏡花、18歳)、神楽坂横寺町にある尾崎紅葉の新居を訪問。即座に弟子入りを認められる

明治22年4月、紅葉の『二人比丘尼色懺悔』に感動し、翌明治23年夏、紅葉「夏痩」(『読売新聞』)に再び感動して、自分でも小説を書こうと思い始める。この年11月、紅葉を訪問する目的で上京する。


「・・・・・いざ東京に着くと、西も東もわからないし、いきなり紅葉のもとを訪れる勇気もない。

そんな風にして空しく一年の時が流れようとしていた。もとより学資もない。日々の食事さえ満足に取れない。夜逃げ同然で転居すること十数カ所。むざむざ国に帰るのは残念だけど仕方がない。もはやこれまで。と思っていた「丁度其時です、先生の御縁続きで、本郷に下宿屋をして入らつしやるのがありました。そこに私の友人が居たので、どうにか話をして、添書をして貰つてやらう」(「紅葉先生」)ということで、念願の紅葉との面会がかなったのである。

(略)

門弟に対する紅葉の面倒見の良さには定評があったけれど、しかし、いや、だからこそ、彼が、来る者は拒まずで、誰も彼もを門弟に招き入れたわけでないことは、鏡花の半年前に紅葉宅を訪れた田山花袋に対する態度を見れば良くわかる。紅葉は初対面の鏡花に自分と同質のものを見て取った。そのロマンチックな気質を(実は二人のロマンチシズムは微妙な点では異なっているのだが)。だから即座に弟子入りを認めたのだろう。

鏡花が紅葉の家の玄関先の三塁間に起居するようになって数日たったある日、紅葉の留守中に、二人の作家志望の青年が小説の原稿を手に、紅葉宅を訪れる。のちの徳田秋声と桐生悠々である。


玄関にいた泉の姿を見て、徳田は、金沢の高等学校の入学試験の時に見かけた男だなと思った。泉は町っ子らしい柄の着物を着て、にこにこ笑って、「先生はお出かけで留守です」と言った。二人は、その日は帰って、翌日、原稿を郵便で紅葉のところへ送った。その原稿は折り返し手紙をつけて送り返されて来た。その手紙には「柿も青いうちは鴉(からす)も突つき不申候」という文句があった。徳田は腹をたててその手紙を引裂いた。(巌谷大四『尾崎紅葉』)


同じ年の暮、小杉為蔵という秋田出身の文学青年が、やはり自作の小説をなずさえて紅葉のもとを訪れる。青年といっても、年齢は紅掌り二つ上だ。紅葉宅を訪問する前に彼は既に、『しがらみ草紙』を愛読し心酔していた森鴎外のもとを訪れ、ていよくあしらわれていたのだ。『魔風恋風』のベストセラー作家となったのち、彼、小杉天外はその当時を回想して(「鴎外、紅葉、正直正太夫」『文章世界』明治四十一年九月号)、森鴎外から、「あなたの作は見ました、然し実を言へばまづい。そりや某々などに比すると君の方がいいが、作家といふものは非常な天才を持つて居なければいけない。凡庸の才ではなかなあ容易なことではない。あなたはむしろ歴史のやうなものをやつたらどうか」と言われ、文豪の卵をもって任じていた自分はとても不服だったと語っている。

続いて訪ねた紅葉からも同様のことを言われ、冷遇された。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

10月20日

坪内逍遥(32)『早稲田文学』(第一次)創刊(~明治31年10月8日)。饗庭篁村「俳諧論」10~25・9。逍遙「シェークスピヤ脚本評註緒言」(これを契機に「しがらみ草紙」の森鴎外との間に、翌年まで没理想論争)。 


「・・・・・この第一次『早稲田文学』は、創作が主体となる後のそれとは大きく異なる、文学講義録、学校に通うことの出来ない例えば地方在住の若者たちのための一種の通信講座(この頃になると、それだけ、若者たちの間で、文学に対する関心が高まっていたのだ)だった。

『早稲田文学』創刊号に逍遥は「マクベス評釈の緒言」を載せ、その一文で逍遥は、「シェークスピアは造化が無心にして、見る人によって様々の相を呈するに似ている。如何なる解釈をも理想をも入れ得て、その本意を知り得ない。これはその作に理想が高大な為ではなく、理想が見えぬためである。これを没理想といふ。没理想たり得なのはドラマの体をとつたためであると論じた」(吉田精一「逍遥・鴎外の論争とその立脚点」)。さらに逍遥は同誌十一月号に、この続篇を載せた」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

10月21日

啄木姉サダ、田村末吉(明治26年1月、叶と改名)と結婚。

10月25日

北蒲原小作騒動。新潟県北蒲原郡太田古屋村、大地主市島徳次郎の入付米増額に反対して小作人300人が争議。翌年、同郡宮川新田で水入証を取り戻すために小作人が決起。この頃から水害などを原因として散発的に発生の小作争議が、地主制の強固な高生産力地帯で頻発。

10月28日

濃尾地震。マグニチュード8.0、死者・行方不明者7,273人、負傷17,175人。

10月30日

(桃水の妹幸が戸田成年に嫁いだのを機に師弟の関係が復活)4ヶ月ぶりに、麹町区平河町の桃水の隠家を訪ね、龍田浩と鶴田たみ子の事件について釈明を聞く(たみ子の産んだ千代子を桃水の子と誤解していた)。この日桃水から「先に送り置たるなん此頃変名にて世に出さはや」という話があり、これが契機となり「一葉」という筆名が使われるようになる

桃水は、この4ヶ月に半井家に起きた出来事を語る。桃水宅に寄留していた鶴田たみ子と弟浩との間に恋愛が生じ、たみ子は7月に桃水の家で出産。出産後はとりあえず母子ともに福井県の実家に帰る。浩は独協医学校を退学して米問屋の養子に出て、後には福井でみ子と所帯をもつことになる。この上、更に妹幸子の婚姻が重なり、桃水には多事であった。

桃水は、一葉の訪れがないのは、弟の醜聞のためではないかと心配し、野々宮起久に話して誤解のないように伝えてもらおうとしたと語るが、一葉が野々宮から聞いていたことは、桃水の説明と異なりたみ子と関係したのは桃水自身であった。一葉はそれを「笹原はしる御心なめりしか」と、疑いの思いで日記に書きとめる。

筆名「一葉」が最も早く現れるのは、この年(明治24年)秋、村上浪六の序文の写しと感想を書いた資料である。続いて『森のした艸一』のなかに「一葉の戯著」と見える。

「一葉」は、達磨大師が乗って渡来したといわれる芦の一葉にちなんだもので、達磨には足(銭)がないという悲しいしゃれに拠っている。

なみ風のありもあらずも何かせむ一葉(ヒトハ)のふねのうき世なりけり

という歌も詠んでいる。

一葉は一艘の舟を表現する「一葉舟士」とも署名している。最初は波間を漂う舟をイメージしたらしく「棚なし小舟」という未定稿作品などに描かれている父や頼るべき人を亡くした彷徨の境遇を象徴したものであった。桃水と離別してからは、恋の煩悶のなかで禅宗の蘆葉(ロウヨウ)達磨のイメージと結びつき、一葉の哲学や処世観を象徴するようになった。『はな紅葉一の巻』に「身はもと江湖の一扁舟、みづから一葉となのつて芦の葉のあやふきをしるといへとも波静かにしては釣魚自然のたのしみをわするゝあたはず」と書いている。


つづく


0 件のコメント: