2011年8月2日火曜日

永井荷風年譜(14) 明治42年(1909)満30歳(3) 漱石の依頼で小説「冷笑」を朝日新聞に連載

永井荷風年譜(14) 明治42年(1909)満30歳(3) 
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この頃、第三高等学校フランス語教師の席を希望し、上田敏に斡旋を依頼。
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9月中旬
京都に遊び島原を見る。
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9月20日
『歓楽』を易風社より刊行。
24日付で発売禁止処分。収録作品『歓楽』『監獄署の裏』のため。
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10月
『帰朝者の日記』(のち『新帰朝者日記』)を「中央公論」に発表
『荷風集』を易風社から出版。
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「自分は今や唯だの一日すらも、日本在来の飲食物には満足する事が出来ぬ身体になったのかと思ふと、寧ろ淋しい悲愁を感ぜずには居られない。
世界に類例のない『茶の湯』といふヱチケットを作った日本人、魚の腸(ハラワタ)の塩漬を称美する日本人とは、自分は如何に思想上のみではなく肉体の組織からしても異って了つたのであらう。
パンと葡萄酒…(中略)…に云ひ難い神秘が生ずる」(『新帰朝者日記』
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漱石を早稲田南町の邸に訪問
この頃、漱石の依頼で「朝日新聞」に『冷笑』を連載するため、逗子の別荘で執筆

経緯:
泉鏡花『白鷺』連載のあと、新人作家、志賀直哉を起用する話が進んでいたが、本人が、途中までいったが書けなくなったので破約にしてくれ、と言ってくる。

この時、文芸欄担当の漱石が朝日新聞の窓口である山本笑月に宛てた手紙
「志賀の断り方は道徳上不都合で、小生も全く面喰いましたが、芸術上の立場からいうと至極尤もです。
今迄愛した女が急に厭になったのを強いて愛したふりで交際しろ、と傍からいうのは少々残酷にも思われます」

(志賀のこの時の挫折は、後に志賀の代表作『暗夜行路』として結実する。)

その志賀の後釜に選ばれたのが荷風で、漱石の意向を受けた森田草平が、執筆依頼に牛込余丁町の荷風の家に出向く。
勿論、荷風は漱石からの依頼とあって小説執筆を快諾。
原稿料は1回5円。

「冷笑」の後は、漱石「門」が連載される。

後に佐藤春夫は、
「わが荷風先生は新聞や新聞記者は大嫌いな人である。それが朝日新聞のためには、頼まれて先生の唯一の新聞小説『冷笑』の執筆を承諾したばかりか、後年、一家の感興の赴くがままに書いた「濹東綺譚」を発表するに当っても、頼まれもせぬ朝日新聞を択んだのは、いやな事は一切せぬ先生だけに異数の事である」と回想している。
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初冬
自由劇場創立の頃、小山内薫と共に市川左団次を新富町の家に訪ね、親しくなる。
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12月
『すみだ川』(「新小説」)に掲載、
『冷笑』を「東京朝日新聞」(13日から43年2月28日まで78回)に連載。
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荷風の帰国後の作品、『深川の唄』『曇天』『監獄署の裏』『祝盃』『歓楽』『帰朝者の日記』(のち『新帰朝者日記』)は、いずれも明治末の東京が持つ近代国家(近代都市)としての未成熟、西欧文明模倣、猿真似への徹底的な嫌悪、痛烈な蔑視、揶揄と呪詛である。


帰朝した主人公が神戸埠頭に出迎えた弟をみた瞬間、
「あゝ、人間が血族の関係ほど重苦しく、不快極るものは無い。」(『監獄署の裏』)と云う。

「江戸時代はいかに豊富なる色彩と渾然たる秩序の時代であつたらう。
今日欧洲の最強国よりも遙に優る処があって、又史家の嘆賞する路易(ルイ)十四世の御代の偉大に比するも遜色なき感がある」(「冷笑」)

「外国から帰つて来た其当座一二年の間は猶かの国の習慣が抜けないために、毎日の午後といへば必ず愛読の書をふところにして散歩に出掛けるのを常とした。

然しわが生れたる東京の市街は既に詩をよろこぶ遊民の散歩場ではなくて行く処としてこれ戦乱後新興の時代の修羅場たらざるはない。

其中にも猶わづかにわが曲りし杖を留め、疲れたる歩みを休めさせた処は矢張いにしへの唄に残った隅田川の両岸であった。

(略)既に全く廃滅に帰せんとしてゐる昔の名所の名残ほど自分の情緒に対して一致調和を示すものはない。
自分はわが目に映じたる荒廃の風景とわが心を傷むる感激の情とを把ってこゝに何物かを創作せんと企てた。
これが小説すみだ川である。

さればこの小説一篇は隅田川といふ荒廃の風景が作者の視覚を動したる象形的幻想を主として構成せられた写実的外面の芸術であると共に又この一篇は絶えず荒廃の美を追究せんとする作者の止みがたき主観的傾向が、隅田川なる風景によって其の抒情詩的本能を外発さすべき象徴を捜(モト)めた理想的内面の芸術とも云ひ得やう。

さればこの小説中に現はされた幾多の叙景は篇中の人物と同じく、否時としては人物より以上に重要なる分子として取扱はれてゐる。

それと共に篇中の人物は実在のモデルによって活ける人間を描写したのではなくて、丁度アンリィ、ド、レニヱエがかの「賢き一青年の休暇」に現したる人物と斉(ヒト)しく、隅田川の風景によって偶然にもわが記憶の中に蘇り来つた遠い過去の人物の正に消え失せんとする其面影を捉へたに過ぎない。」(大正2年3月『すみだ川』第五版の序文)

「私の考へぢや思想よりも文章ですね、思想は文学者でなくツても知識と経験のある人は誰でも相当の思想を持って居るもんです。
苟(イヤシク)も文学者にならうとするものが思想のない筈はない。
然し思想があつても此れを他人に伝へる発表の方法がなければ思想がないのも同様でせう」(『冷笑』


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「★永井荷風インデックス」 をご参照ください。
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