永禄7年(1564)5月
この月
・北条氏康・氏政軍、下野佐野城攻撃。北条軍惨敗。
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・フランス、マドモワゼル・ド・リムーユ、コンデ公の子供を出産。
カトリーヌは、「遊撃騎兵隊」妊娠御法度の掟に従い、マドモワゼル・ド・リムーユを逮捕、オソンヌ修道院に幽閉するが、コンデが叛徒に戻ることを防止するためコンデに戻す。
コンデは妻エレオノール・ド・ロワ(コリニー姪)と死別したばかり。
コリニーは、コンデをユグノーに戻すためロングヴィル伯爵令嬢を後妻候補として引き合わせ、コンデはロングヴィル伯爵令嬢に首ったけとなりマドモワゼル・ド・リムーユはお払い箱となる。
カトリーヌは、マドモワゼル・ド・リムーユをフィレンツェの裕福な銀行家サルディーニと結婚させる。
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・トスカナ大公コジモ、カーミラ・デ・マルテッリをみそめる。
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5月2日
・ジャン・カルヴァン、盟友ギョーム・ファレルに手紙。
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5月9日
・安宅冬康(39)と家臣18人、河内飯盛城で兄三好長慶により謀殺される。部将の松永久秀の中傷を信じて。
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5月12日
・里村紹巴(じょうは、連歌師)ら、「石山千句」を行う。
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5月17日
・武田信玄、上野倉賀野城(高崎市)を攻略。
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5月27日
・ジュネーブ、ジャン・カルヴァン(54)、没(1509~1564)。
後継改革派リーダー、テオドル・ペザ(テオドール・ド・ベーズ)。
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6月
・武田信玄、初めて飛騨に出兵。
飛騨の三木良頼と江馬時盛の抗争に江馬氏支援のため、山県昌景・甘利昌忠を総大将に木曾衆を与力として派遣。
また、17日付け美濃の長井道利宛て書状で、信長の侵攻により斉藤竜興と対立する長井氏を支援するため信濃衆を派遣すると約束。
この時期、西上野侵攻途上であるが、今川義元没を契機として氏真との関係が微妙となり、外交戦略も変化の兆し。
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6月2日
・将軍足利義輝、日向(伊東氏)・薩摩(島津氏)に使者を派遣して和談を求める。
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6月9日
・信長、上杉謙信の宿老直江景綱(「直江大和守」)に書簡送る。
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6月15日
・山科言継、松尾神社の御田植神事を見物。
この頃、近くの西芳寺では蓮花の真っ盛り(「言継卿記」同日条)。
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6月20日
・家康、三河統一
松平家康(23)、今川氏真の部将小原鎮実の守る吉田城攻略、続いて田原城を攻略し、三河を統一。
田原城を本多広孝に、吉田城を酒井忠次に与えて東三河の旗頭として大小の武士を統轄させる(既に、西三河は石川家成が旗頭)。
ここに松平氏譜代の重臣酒井忠次と石川家成の2人に家臣団を統轄させる体制が整う。
家康は、以後3年間は三河統治に専念。
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6月22日
・三好長慶の家督相続を許された重存、松永久通・三好長逸らと広橋国光らの公卿を含め4千人を従え、将軍家に対し御礼言上のため上洛。
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7月
・太田資正(反北条、越後謙信とのパイプ役)、北条氏と密約した子氏資により武蔵岩槻城を追放。
氏資は北条氏に城門開く。
岩槻を追われた資正は常陸佐竹氏に身をよせ、北条氏への抵抗を続ける。
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7月1日
・京都で大洪水。
山科言継は、
「正親町小河悉く河と成る・・・。東の河原は海の如きなり。東西とも大洪水と云々」
と記す(「言継卿記」同日条)。
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7月4 日
・京都の実力者三好長慶(43)、没(死亡は2年後公表、永禄9年6月24日葬儀)。
重存が跡を嗣ぐ。
その後は三好三人衆と松永久秀が継ぐが、次第に両者は対立して争乱状態となる。
家臣松永久秀、京都所司代として勢力伸長。
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三好三人衆側に摂津池田家・筒井勢を加わり、松永勢はじりじりと追われてゆく。
1568(永禄11)、三好三人衆側は朝廷に認めさせて、第14代将軍に足利義栄を就かせ、公的立場に立つことで、政治・軍事的に松永久秀などに対して圧倒的な優位に立つ。
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7月5日
・上杉景勝(10)父長尾政景、野尻湖で舟遊び中に事故死。
景勝は謙信の命により直江実綱・甘糟景持に預けられ、13歳のとき、謙信より召し出し出され側奉公を命じられる。
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7月15日
・山科言継、堺へ旅行。~8月11日。
13日、下鳥羽より乗船し、淀で「大船」に乗り替えて山崎に渡り、翌日橋本(八幡市橋本、山崎の対岸)から改めて舟を仕立てて淀川を下る(「言継卿記」13、14日条)。
大坂では烏丸邸に投宿、天王寺・薬師院を経て堺へ向かい、ここで8日間滞在。
その間、九条殿や南庄の旭蓮社(キョクレンシャ)を訪れる。
言継は南庄の堀普請が続いていることを日記に認める。これは堺の環濠開掘の最も古い史料とされる。
帰途、摂津中島(西成郡を指すの野田道場(本願寺の布教拠点で一向一揆の基盤となった末端組織)を訪問(「同」8月7日条)。
京都へは陸路枚方経由、乗馬で帰る。
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7月15日、石山寺内町の灯籠会の風流踊も京都と同様に盛行。
言継、驚く。
「門跡の灯籠見物す。・・・大小廿三これあり。目を驚かす事なり。終日町々より躍り共来る。見物し了んぬ。・・・門跡の灯呂見物、火とほしいよいよ見事の至極なり。」(「言継卿記」同日条)。
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7月15日
・義信謀叛(「甲陽軍鑑」による)。
武田信玄嫡男義信、長坂源五郎・傳役曽根周防昌世を供に飯富兵部少輔虎昌訪問。
実際は翌8年10月の事件。
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7月25日
・神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世、没。
ハプスブルグ領三子分割を遺言。皇帝マクシミリアン2世、即位(位1564~1576)。
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7月25日
・毛利元就・元春・隆景と大友義鎮(宗麟)が和睦。
毛利元就は出雲制圧に集中するため、南方の足かせをはずす意味で大友義鎮と和解。
大友氏も毛利迎撃の準備のための休戦期間。
毛利側の条件は義鎮の娘を小早川秀包に嫁がせる事。
大友側の条件は筑前の諸城を大友氏に返却する事。
事実上、毛利氏大損で終わった和睦交渉。
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7月27日
・この日、天王寺屋宗達は、南北町衆40人を茶会に招き、大座敷で振舞う。
茶会は必ずしも四畳半茶室でのみ行われた訳ではない。
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7月29日
・上杉輝虎(35)、善光寺着。
中旬、飛騨地侍争乱平定のため信玄、山県昌景1万派遣。
飛騨桜洞城主三木嗣頼、輝虎に救援要請。
8月3日、犀川渡り全軍を川中島へ進出させる。
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「★織田信長インデックス」をご参照下さい。
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