その竹久夢二、
明治44年1月24日の幸徳らの処刑の日、仲間うちで幸徳らのお通夜を行った。
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以下、中村文雄「大逆事件と知識人」より、神近市子「私が知っている夢二」の孫引き。
神近は当時、夢二の事務所(東五軒町の自宅)で働いていた。
夢二は、常連の青年画家たちと二階にいた。
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****(段落を施す)
「そこに号外だった! 大逆事件の十二名の死刑が行われたとあった。
私は(死刑)ということに興奮して、すぐそれを二階に見せに持って行った。
夢二氏はそれを手にとると、フーン! と言って沈黙された。
私はそれを渡すとすぐ階下に下りたので、あとでどんな話が出たか知らない。
まもなく夢二氏が階下におりて来られた。
大変興奮していて、私にはじめて十二人の中には秋水をはじめ数人旧知の人がいることを話された。
- ぼくは、平民新聞に出入りして、何時も与謝野さんなんかとデモにも出ていたんだ。
言葉は少ない人であったが、はたにいても受けられたショックが強かったことは想像できた。
- 今夜は皆でお通夜しよう。線香と蝋燭を買っておいで!
そこで何か夜食なども仕度され、お通夜をした。
(略) 」
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夢二は、明治17年9月16日、岡山県に誕生。
明治34年夏、17歳で単身上京。
翌35年9月、早稲田実業本科に補充入学。
明治38年3月、本科3年を卒業し、同年4月に専攻科に入学するが9月に退学。
この頃、早稲田に通いながら白馬会の洋画研究所に通っている。
親元からは送金を止められ、葉書に絵を描いて生活費に充てる生活を送っている。
早稲田学生岡栄一と小石川雑司が谷鬼子母神近くの農家に間借・自炊生活をしており、しばらく、荒畑寒村(夢二の3歳下)を寄食させたこともある。
そして、この年(明治38年)6月18日、
夢二の最初の絵「勝利の悲哀」が「直言」(「平民新聞」の後継)に掲載される。
世に出た夢二の最初の作品のコマ絵である。
荒畑寒村「寒村自伝」では、夢二が荒畑に厚い自筆の習作画帳をみせて、この中から適当なものを「直言」誌上に発表してもらえまいかと相談、荒畑が堺利彦に話して快諾を得る。
この「勝利の悲哀」は、赤十字のマークのついた白衣の骸骨と並んで丸まげの若い女が泣いているというもの。
また同年6月20日には、
「中学世界」増刊号に竹久夢二の投稿挿絵「筒井筒」が掲載される。
この時、初めて夢二を名乗り、また夢二美人画の初めでもある。
堺利彦は、小川芋銭を「平民新聞の最も美なる且つ最も大いなる花」と評し、
「竹久夢二君の才も亦驚嘆すべきものである。平民新聞が此二画家を得たことは尖に吾人の詔とする処である」
と讃えている。
また、
「夢二君の十七字詩は寸鉄殺人的でそしてまた濃艶、凄腕の趣があって嬉しい」
とも讃える。
(明治40年)
夢二は、その後、社会主義運動からは離れ、
明治42年12月15日には、「夢二画集」春の巻を出版。これがベストセラーとなる。
その後、夏、花、旅、秋、都会の巻などを続刊する。
しかし、明治43年6月、大逆事件関係者の検挙が続く中で、夢二は2日間、警察に拘束される。
夢二にとってこの体験は衝撃だったらしく、警察から帰るとすぐに有り金を持って、九十九里方面に逃避した。
この九十九里での生活の中で「宵待草」が生まれたという。
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