2011年8月17日水曜日

昭和16年(1941)8月19日 「役人軍人輩の銅像をも取排ひ・・・物資の缼乏を補ひ、且又市街の醜観を減ずべく一挙両得の策たるを得ぺし。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

永井荷風の「断腸亭日乗」を少しずつ順次ご紹介してます。
今回は、昭和16年8月後半。
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昭和16年(1941)
8月16日
・八月十六日。晴。市中電車またまた雑沓甚しくなれり。暑中休暇の時節終に近き出京するもの激増せしが為なりと云。
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8月17日
八月十七日 日曜日。快晴。法師蝉始て啼く。残暑燬(や)くがごとし。
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8月19日
八月十九日。晡下士州橋に至る。
いつも日比谷櫻田邊を過ることを好まざれば、三原橋行の電車に乗り歌舞伎座の前にて水天宮行に乗かへる事になし居たりしが、此日谷町通にて市営自働車乗客皆無のものに行逢ひたれはそれに乗りぬ。
道すがら虎の門より櫻田へかけて立連りし官衙の門墻を見るに、今まで鐡の鋳物なりしを悉く木製に取りかへたり。日比谷公園の垣は竹になしたり。
此れ米國より鐡の輸出を断られたる為なるべく貧國物資の欠乏察するに餘りあり。
過日荒物屋に物買ひに行きしに魚串金網はりがねの類久しき前より既に製造禁止となれる事を知りぬ。

役人軍人輩の銅像をも取排ひ隅田川の橋梁を昔の如く木製になさば物資の缼乏を補ひ、且又市街の醜観を減ずべく一挙両得の策たるを得ぺし

日本橋に夕餉を喫して浅草に行く。
公園内の八百屋には市中と異りみつ菓胡瓜蕃茄などならべられたり。
六區の楽屋横町にて藝人達と雑談す。今年十月より増税のため木戸銭またまた高くなるぺし。現在にても公園興行場の景気は二三年前に比すれば既に二割方減少せりとのはなしなり。
歸途仲店横町の三樂といふ佃煮屋にて煮豆買はむとせしが品切なり。
十一時過家に歸る。夜熟甚しく眠り難し。
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この頃、鉄の不足も深刻となり、官庁の門が木製にな、日比谷公園の柵も竹になる。
荒物屋では、金串、金網が製造禁止になっているという。
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8月21日
八月念一。晴。
鄰人のはなしに野菜果實をはじめ麵麭菓子其他日用品を買ふに皆行列する騒にて、物一ツ買ふに一二時間を費す由なり。
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8月22日
八月念二。晡下微雨。溽暑甚し。
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8月23日
・八月念三。夜濹東漫歩。
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8月25日
八月念五。
日用品の欠乏するにつれ人心の不安益甚しく、今年の暮あたりには銀行預金の引出しにも制限を加へらるゝやの虞ありとて、市中の商家にては紙幣を田舎へ持運ぶもの尠らざる由。東京の家にかくし置く時は空襲の際火災に罹かる虞ありとの事なり。
余も萬一の事を慮り弐千圓ばかり銀行より引出し西洋煙草の空鑵に入れ、台所の棚の上に載置くこととなせり。
是れ火災をおそるゝ為ならず、盗難を避けんが為なり。笑ふぺし笑ふぺし。
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8月27日
八月念七。朝の中雨ふりて俄に涼しくなりぬ。夜浅草に飰す。
池谷邊にて町の子供空気銃にて通行の女を射撃し傷つけたる由。
乱世實に恐るべきなり
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8月28日
八月念八。晴れて風涼し。
或人のはなしに麻布青山邊のアパートには軍人の妾または軍人相手の賣春婦多く間借りをなし居れり。警察署にても遠慮して手人をなさず知らぬ顔をしてゐる由なり。
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8月29日
・八月念九。薄く曇りで風涼し。深夜初めて蛼の鳴くをきく。
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8月30日
八月三十日。幸橋税務署より出向かれたき趣昨日端書到着したれば、朝早く風涼しきを幸に赴き見たり。
蓋し本年の所得税去年の倍額に近きものになりたれば去五六月中抗議の為届書を送り置きしなり。
係の役人余を別室に招ぎ仔細らしく書類帳簿等持出し貴下の申さるゝ所一〃尤なれども世に有名の文士なれば、實際の御収入よりも多額の認定をなすは是非なき次第なり。有名税とも言ふべきものなれば本年は我慢なされたし。来年は三四月頃直接に署長に御面談なさるゝがよかるべしと言ふ。
刀筆の小吏を相手にして議論するも益なき事なればその儘出で去りぬ。


日本の政府は文士の虚名を奇貨となし實際の収入よりも多額の認定をなして税金を取立て、辯解の辭に窮する時は有名税としてあきらめよと係の小役人をして明言せしむ。
之に由って観るに政府は實際を以て實際となす事を欲せず、即眞實を否定して顧ざるものなり。


政府の国民に封する奸策驚くべく悪むべきなり


抑租税とは何ぞや。租税とは地代もしくは家賃の如きものなるべし。人間生れて地上に棲息するや其土地を所有する政府は家主又は地主の如く随意に金額を定めてその地に住むものより賃銭を支払はしむ。
この賃銭によりて政府の官吏は衣食をなし、軍人は野心を逞くするなり
人間死して地獄に行くも猶六道銭を携へざる可からず。博徒盗賊の群にも亦これに似たる税金あり。


金が敵(かたき)の世の中とは眞なる哉
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8月31日

八月卅一日。微雨。秋冷窓紗を侵す。昨來虫聲俄に多くなりぬ 日曜日
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8月30日、
税務署から呼び出しがあったので、朝早く涼しいうちに出かけ。所得税が昨年の倍になるというので、苦情を申し立てたことに対する返事だった。
あなたの言うことは一々ご尤もだ、しかし、あなたは有名な作家なんで、実収入より多めに認定をさせていただきます、有名税ということですね、という。下っ端の署員に言っても無駄だと、おとなしく引き上げる
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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