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この年、「萬朝報」が、開戦世論に抗することが出来ず、開戦論に転向。
このため、戦争反対を主張してきた記者の幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三は退社し、幸徳・堺は「平民新聞」を刊行。
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この年、硯友社の大家尾崎紅葉が胃癌で没しますが、同い年の夏目漱石は、この年、イギリス留学から帰国し教職につきます。
(紅葉と漱石は、慶応3年生まれの同い年。でも、一方は既に大家で、もう一方はまだ文学で身をたてる決心ができず、とりあえず教職につきます。)
同じ慶応3年生まれを7人並べた坪内祐三「慶応三年生まれ七人の旋毛曲り 漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代」(新潮文庫)という面白い本があります。
対象となる期間が明治27、8年までなのが惜しいですが。
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また、この年、洋行に赴いた人に、かの永井荷風と有島武郎がいます。
同じくぼっちゃん育ちながら、生き方は対照的な二人。
年齢は武郎が1歳上で、この年25歳。
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啄木は17歳、文学で身を立てるべく単身上京し、この年、失意の帰郷。
小林多喜二はこの年誕生。
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そんな年から始めます。
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明治36年(1903)
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この年
・中国、商務印書館、日本の4大教科書出版社金港堂社主原亮三郎と提携。
小学校の国語教科書を出版。
一方で、「繍像小説」(1903)、「東方雑誌」(1904)、「教育雑誌」(1909)、「小説月報」(1910)、「少年雑誌」(1911)と発行。
中国最大の出版社となる。
「天演論」(1905、進化論を紹介)など西洋近代思想翻訳・出版を行う。
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・日本の不就学率(全国平均)。
1897(明治30)年には33.35%(男19、女49)のものが、この年、6.77%(男3、女10)となる。
しかし、この統計は学齢人員中就学義務の生じたものの比率で、これ以外に「就学義務生ゼゲルモノ」が1897年で55万人強(7.73%)、1903年で100万人(15.7%)もいる。
またこの「就学義務生ゼゲルモノ」は、1896~99年は毎年50万人台のものが、1900年には88万人と急増、以後90~100万人台とある。
これは、小学校令施行による貧窮民児童の大量切り棄てを意味すると推測できる。
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1月
・駐日韓国公使高永喜、戦時局外中立を求める韓帝密書を小村外相に手交。
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・日本政府、日露協商基礎条項提示。
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・新俳優伊井蓉峰と小島文衛が、市村座で近松門左衛門「寿門松」、森鴎外「玉匣両浦島」、紅葉(モリエールの翻訳)「夏小袖」を上演。
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森鴎外(41):
前年1月に結婚、3月小倉から上京、6月上田敏と雑誌「芸文」を創刊、9月アンデルセンの小説「即興詩人」の翻訳を春陽堂から出版。12月、弟の三木竹二の主宰する「歌舞伎」号外として詩劇「玉匣両浦島」を発表。
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永井荷風(24):
仲間の畠山古瓶が伊井蓉峰の弟子として初めて舞台に立つことになったため、巌谷小波宅によく集る生田葵山、谷活東、小栗風葉などと市村座に出かける。
このとき、荷風は、隣の桟敷に葉巻をくゆらしている口髭のある人が森鴎外先生だ、君を御紹介しようと、ある男に言われ、鴎外に紹介される。
鴎外は微笑して、君の「地獄の花」は読みました、と言う。
荷風は、これを最上の光栄と感じ、喜びで胸が一杯になり、その晩は、一人で下谷からお茶の水の流れに沿って麹町の自宅まで歩いて帰る。
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鴎外と親しい与謝野鉄幹は「明星」派の人たちと観劇。
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・広津柳浪は、この月に「薬のききめ」を「太陽」に、「何の罪」を「文芸界」に、3月「磯の烟」を「新小説」に、5月「妾」を「文芸倶楽部」に発表。
しかし、問題作というべきものはない。
広津柳浪は、「今戸心中」の後、明治32~33年、「縺れ糸」、「骨ぬすみ」、「目黒小町」の三部作を書く。これは、鴎外が、「作者得意の戯曲的推移にして、読者の心を喜ばすに足るものあり」と評した佳作。
その後の沈滞期のあと、明治35年10月、「新小説」に短篇小説「雨」を発表。これは写実的な作風においての傑作と言われた。
この時柳浪は、数え年42歳。
妻の寿美子が、結婚10年目の明治31年7月に没しており、この年、長男俊夫は数え年15歳、次男の和郎は13歳。
この年柳浪は、5年間の独身生活ののち、高木武雅の長女潔子と再婚。
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・有島武郎(25)、内村鑑三と新渡戸稲造に洋行の相談をする。8月渡米。
この月、有島は、新宿の西郊、柏木に内村鑑三を訪ね留学の相談をする。
内村は欧米の宗教界の腐敗に憤っており、これに反対。
有島は、内村の理窟に納得できず、札幌農学校時代の師、新渡戸稲造を訪ね、改めて留学の相談をする。
新渡戸はこれに賛成し、アメリカへ行くならばペンシルヴァニア州のハーヴァフォード大学がよい、と忠告してくれる。
しかし、翌日、新渡戸から電話があり、後藤新平が皇太子に良友がなく、候補者を求めて来たので、有島を推薦した、洋行もさることながら、国家元首となる人の片腕となる積りはないか、と言う。有島は学習院初等科の11歳の頃、皇太子の遊び相手に選ばれ、毎土曜日に吹上御殿に伺候したことがあり、それが理由で推薦されたものらしい。
有島は数日考えさせて欲しいと新渡戸に伝えるが、その意思は全くない。
父に知れれば拒むことはできなくなるので、父には黙って、2、3日後に新渡戸を訪ねてそれを断る。
有島はその後も新渡戸家をしばしば訪ね、夫人(アメリカ人)について英語会話の教育を改めて受けている。
有島武郎:
明治29年7月、18歳で学習院中等部を卒業、9月に札幌農学校入学。
在学中、内村鑑三の影響を受けてクリスチャンになり札幌の独立教会に入る。
また、農学校教授の新渡戸稲造に親しみその家庭に出入りする。
生徒仲間では森本厚吉(あつよし)、森広、足助素一(あすけそいち)と親交。
同じくクリスチャンの森本とは出版の目当てもなく、敬虔なキリスト教徒で冒険的探検家であったリヴィングストンの伝記を書く。
明治34年7月、23歳で札幌農学校を卒業。卒業論文「鎌倉幕府初代の農政」。8月、「リヴィングストン伝」が新渡戸稲造の紹介により警醒社から出版。警醒社は、小崎弘道らが「六合(りくごう)雑誌」刊行に続いて興した出版社。
同年9月4日、有島の農学校時代の友人で、アメリカにいる森広と結婚する予定で、国木田独歩の妻であった佐々城信子が鎌倉丸で渡米し、有島は、横浜に彼女を見送り面倒を見る。
ところが、佐々城信子は、船中で事務長武井勘三郎と関係し、シアトルに向かえた森を拒否し、その船で帰国。この顛末は、11月、スキャンダルとして新聞に報じられる。
佐々城信子は武井と同棲するが、その後も有島は、信子やその妹たちと交際している。
(小説「或る女」のモデル)
また、同年12月1日から、有島は在学中延期していた兵役につき、麻布の歩兵第三聯隊に1年志願兵として入隊、翌明治35年11月3日に兵営生活を終える。
兵役を終えた後、彼はアメリカ留学の希望を父に申し出て許可を得る。
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