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・岡倉天心(41)、ロンドンのジョン・マレー書店より「The Ideals of 」the East」出版。
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岡倉覚三(天心)は、幼児より英語を学ぶ。
父勘右衛門(福井県出身)は横浜で貿易商を営み、覚三を宣教師ジョン・バラーに預けて英語を学ばせる。
東京大学時代、フェノロサに学ぶ。
英語に堪能な岡倉は、哲学を講じるアメリカ人のアーネスト・フェノロサと懇意になる。
(坪内逍遥は英語が苦手でフェノロサの試験に落ちる。しかし、落ちたことで逆に発奮して英語の猛勉強を始める。)
岡倉は、大学在学中の18歳で大岡元子と結婚。明治13年、19歳で大学を卒業する(坪内逍遥より3年早く卒業)。
その年、岡倉は文部省に勤める(音楽取調掛)。
明治16年、フェノロサが日本美術の価値の再認識を論じたのに触発されフェノロサと共に日本古美術の研究に熱中し始める。
奈良・京都の寺社の古美術を多く発見し、また陋巷にいた優れた日本画家橋本雅邦や狩野芳崖などの仕事に注目し、フェノロサと共に彼等を世に出す。
明治19年、美術取調委員に任ぜられ9ヶ月間、欧米を視察。翌年10月帰国後は、近く創設される予定の東京美術学校幹事に任ぜられる。
明治21年12月、上野公園内に東京美術学校が建てられ、第一期生として下村観山、横山大観、西郷孤月等が入学。
明治23年、東京美術学校長に任ぜられ、更に、東京高等師範学校で美術史を講じる。
また、寺崎広業、梶田半古、小堀鞆音、尾形月耕等の画家と日本青年絵画協会を結成、その会頭となる。
明治26年、宮内省の命により清国に出張。
北京、定州、邯鄲、彰徳、開封等を経て龍門の石窟を見る。その後、函谷関から長安に入り、更に成都を訪れ、揚子江を下って帰国。
この出張により、東洋の思想・芸術について国際的な立場からの判断を持たねばならないと考え始める。
明治29年、岡倉は東京美術学校に西洋画科と図案科を新設。
この頃、彼の指導を受けた寺崎広葉、小堀鞆音、菱田春草、下村観山、横山大観等の作品が世の注目を集め始める。
明治31年(37歳)、文部省と意見が対立し、東京美術学校長の職を免ぜられる。この時、橋本雅邦、高村光雲、石川光明、川端玉章、海野勝珉、竹内久一ら15名の教授らも岡倉と共に辞職。
この年10月、橋本雅邦らと谷中の初音町に日本美術院を創設。
明治34年11月、かねてから望んでいたインド旅行に出発。
マドラス~カルカッタ~ブタガヤ~ベナレス~マヤバッチに至る間、アジャンタ、エローラ、オリッサ等の古代の宗教芸術の遺蹟を訪ねる。
先の中国旅行と相まって、この旅行により、東洋の文化と芸術の価値について一層明確な信念を持つことになる。
またこの間、インドの詩人ラビンドラナート・タゴールと親交を結ぶ。
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彼はこの旅行の間に得た信念(東洋の精神主義の復興の必要と西洋の物質中心文明の批判)を纏めた「The Ideals of the East(東洋の目覚め)」を英文で書き、ロンドンで出版する。
この本はイギリスでよりも、インドの革命志士たちに愛読され、その冒頭の句「アジアは一なり」は、この当時ヨーロッパ諸国の植民地にされてしまっていたインドやビルマの知識人たちに東洋の独立のための合言葉のように考えられるに至る。
また、天心の帰国後、タゴールの肝煎りで、インドのチベラ王国の装飾画を描くことになった横山大観と菱田春草の二人がインドに渡る。
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・野口米次郎(28)、ロンドンで私家版「FROM THE EASTERN SEA ; BY YONE NOGUCHI」出版。
好評を得て、英米で再出版。
日本でも10月に定価35銭の翻刻本が冨山房より出版される。
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啄木の稿に、この詩集について「三十六年十二月二十四日夜徹宵の作」という「詩談一則・『東海より』を読みて」がある。啄木は野口の成功に刺戟を受ける。
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野口米次郎
愛知県海部郡津島町の生れ。
少年時代から英語を学び、16歳で上京してからも、私立中学や慶応義塾で英語を習得。
明治26年11月(19歳)、慶応義塾を中退しアメリカに渡る。
初めサンフランシスコで日本の木版画の行商をしたり、アメリカ人の家に下男として住み込んだりして生活資金を得て、その近くのバロアルトでマンガンタホールという学校の学僕となる。
この間、ポーの詩集を読んで英詩への興味を抱き始める。
明治28年、再びサンフランシスコに出て、日本字新聞社の仕事を手伝う。
明治29年、オークランドの丘の上に母親と二人で住んでいた自然詩人ホーキン・ミラーに近づき、その助手として同居する。
ミラーの山荘で、その原稿の整理を手伝っているうちに、ホイットマンとソーローを読むことを教えられる。自分ではシェレイとヴェルレーヌを好んで読み、それ等の影響を受け、かつミラーの指導を受けながら、彼自身も詩を書き出す。
そのうちに若い詩人たちの友人も出来て、その仲間の雑誌に作品を発表し始める。
また、この頃、彼より1年遅れて日本から来た牧野義雄という若い画家志望の青年と知りあう。牧野はサンフランシスコのホプキンス美術学校に4年間学んでから、ロンドンへ渡る。
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明治30年、処女詩集「Seen and Unseen」刊行、意外なほど好評を得る。
以後、詩や散文を新聞雑誌に売ることが出来るようになる。
明治31年、徒歩でヨセミテの渓谷を旅行し、そのあとで第二詩集「The Voice of the Valley」を刊行。
明治32年(25歳)、シカゴに移り、そこの「イーヴ二ング・ポスト」の寄稿家として数ヶ月を過ごしニューヨークに移る。
ニューヨークでは彼を詩人としても、論客として認めるものがなく、生活に窮し料理店で皿洗いをして生活する。
その後、ある金持の邸宅の給仕頭になり、相当の収入を得るようになる。
明治35年、この給仕頭の生活に材を得て匿名で小説「The American Diary of a Japanese Girl」を出版し、それ等の収入によってその年11月イギリスに渡る。
ロンドンには、サンフランシスコで知り合った画家の牧野義雄がいた。
その頃、日本は日露戦争に備え、イギリスに軍艦の建造を依頼していたので、ロンドンには日本の海軍省の事務所があり、牧野は、そこで働きながら画を学んでいた。
11月、ロンドンに着く。
詩集を出そうとして、ジョン・レーン書店を訪ねるが断られる。
女性批評家レーディー・キャンベルを訪ね、詩人としてロンドンを驚かせるつもりだと、その抱負を語ると、彼女は笑い出して、「詩人の足音ぐらいでロンドンが震動すると思うんですか」と言う。
結局、この年1月12日、乏しい自分の金で16頁の薄い詩集「From the Eastan Sea」を200部を出版し、そのうちの6余部をイギリスの文学者や新聞雑誌に送付した。
翌日(13日)、文学社交界の中心人物サザランド公爵夫人が、祝辞を述べた手紙に10シリングを封入して送って来た。
詩人のローウェル・ハウスマンやアーサー・シモンズ、批評家レスリイ・スティーヴンや、小説家トマス・ハーディ等からも賞賛の手紙が届く。
雑誌「アウトルック」はこの詩集を批評。
続いて、社交界の人々や女優なども彼に手紙をよこし、米次郎は著名な若い詩人として過されるようになり、シモンズやイェーツやウィリアム・ロセッティ等と友人になる。
ユニコン・プレスという出版社から、彼の詩集の増補版が牧野義雄の装帳で出ることになる。
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この年12月23日、野口は、「From the Eastan Sea」が世に認められるまでの日記を『万朝報』に寄稿(「学鐙」の同年12月号に転載)。
詩集200部が出来上がった日の感動を、「千九百三年一月十二日。アトラスト、終に!」と書く。
50余部を新聞、雑誌、主な英国の文人などに送り、1ヶ月の間に讃辞に埋まり、僅か3部を残すばかりとなる。
「ホー、ホー、ホー! こは又何事ぞ、、雑誌アウトルック(Outlook)を見ずや。鳴呼余の文名終に成れり。何等の好ノーナスぞ。十六頁に対して殆んど二頁を費やして批評せり。何等の親切ぞ。余はバイロン卿の如く一朝にして有名なるものとなれりと思ふ」(1月17日)
女王からも献本への礼状が来た。「鳴呼成功! 成功なる哉。余は汝成功を千度も接吻するなり、サクセス!」
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