永井荷風年譜(17) 明治45年・大正元年(1912)満33歳
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1月
戯曲『暴君(のち『煙』)を「中央公論」に、戯曲『わくら葉』を「三田文学」に発表。
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2月
『妾宅』を「朱欒(ザンボア)」(4回まで、以下は「三田文学」)に、『掛取り』を「三田文学」に掲載。
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2月9日
午後1時、三田文学会春季講演会を慶応義塾25番教室で開催。
小山内薫、馬場孤蝶、森田草平、生田長江らの講演。荷風は閉会の挨拶。
午後7時頃より三田東洋軒にて懇談。正親町正和、里見弴ら出席。
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この月から巴家八重次方で哥沢の稽古を始める。
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3月9日
午後7時半より有楽座にて東京仮装会の催し。荷風は発起人として名を連ね、中国服を着用、中国人に仮装して出席。
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4月
『風邪ごゝち』を「中央公論」に、『浅瀬』を「三田文学」に発表。
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5月
『昼すぎ』を「三田文学」に発表。
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5月28日
三田文学会座談会を歌舞伎座茶屋山本にて開催。
荷風、孤蝶、広瀬哲士らが出席。籾山庭後の発案で寄せ書きをする。
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6月
『名花』を「三田文学」に発表。
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6月17日
午後4時半頃より築地精養軒にて三田文学会晩餐会。
顧問森鴎外、石田幹事、荷風、孤蝶、哲士らが出席。
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この頃、痔を病み池田病院に入院。
身体不調と共に意気消沈しているが、三味線や哥沢には熱を入れる。
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7月
『松葉巴』を「三田文学」に発表。
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「残柳舎敗荷と改名致可くや」(7月8日付)と唖々宛書簡で述べ、敗荷と署名。
「敗荷」:「はいか」「やれはす」、枯れて破れた蓮をいう。
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9月
『五月闇』を「三田文学」に発表。
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9月3日
夜、三田文学会座談会を鴻ノ巣で開催。
荷風、久保田万太郎、松本泰、小沢愛圀、井川滋らが会合。
この日、荷風は戯画を揮毫する。
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9月28日
本郷湯島の材木商斎藤政吉の次女ヨネ(22歳)と結婚。
赤坂星ケ岡茶寮で井上唖々の両親・井上順之助(=如苞)夫妻の媒酌により結婚式を行う。10月21日入籍。
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荷風の結婚観
「結婚とは、最初長くて三個月間の感興を生命に、一生涯の歓楽を犠牲にするものだ。毎日、毎夜、一生涯を同じ女の、次第に冷て行く同じ肉、同じ動作、同じ愛情、同じ衝突、同じ講和、同じ波瀾、一ツとして新しい範囲に突飛する事はない。良人たるべき単調に堪え得る人は、驚くべき意力の人だ」(『ふらんす物語』中の「放蕩(四)」〉
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式の直後に荷風が出した手紙。
「昨夜新しき親籍の家に行き大に哥沢をやり候。結婚当日の事は仔細に冷静に充分なる傍観的観察をとげ申候。形式美を好む小生には三々九度なぞの煩はしき虚礼も甚だ興味有之候」
「兎に角此頃は小生の思想も非常に変化致し居候には我乍ら驚かざるを得ず。凡ての事を世間並みに解釈して行くより致し方なし。あらゆる旧習を其の儘に受入るゝやうに心掛け居候。今日までは兎角に何物か新しき生命を生涯の中に見出さんと勉め、或る時は反抗し或時は絶望も致し候へど思へば益もなき事に御坐候。個人性の発揮は最早や小生の芸術にとつてさして尊きものにても無之候。此れよりは昔の町絵師や戯作者の如き態度にて人のよろこぶものを需めに応じてコツコツと念入りに親切に書いて行くつもりに候」(大正元年10月1日、籾山仁三郎宛)
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12月14日
夜、築地野田屋に森鴎外、石田新太郎、籾山仁三郎を招飲する。
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12月下旬
八重次と箱根塔之沢に遊んで29日夜には帰京。
しかし、30日は大雪のために帰宅せず。この夕方、父久一郎が脳溢血で卒倒。
31日、井上唖々の急報で帰宅。父は意識なく昏睡状態。
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この頃の「顛末」(大正15生1月2日の「日記」、13年後の父の命日)
「先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。
これも今は亡き人の数に入りし叔父大島氏訪ひ来られ、款語して立帰られし後、庭に在りし松の盆栽に雪のつもりしを見、其枝の折るゝを慮り、家の内に運入れむとて両の手に力を籠められし途端、卒倒せられしなり」
「予はこの時家に在らず。
数日別より狎妓八重次を伴ひ箱根塔之沢に遊び、二十九日の夜妓家に還り、翌朝帰宅の心なりしに、意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、障子細目に引きあけてと云ふ、葉唄の言葉その儘なるに、心まどひて帰ることを忘れしこそ、償ひがたき吾一生の過なりけれ」
「予その年の秋正妻を迎えたれば、心の中八重次にはすまぬと思ひゐたるを以て、歳暮学校の休暇を幸、八重次を慰めんとて予は一日先立って塔之沢に出掛け、電話にて呼寄せたりしなり」
「予は家の凶変を夢にだも知らず、灯ともし頃に至りて雪いよく烈しく降りしきほどに、三十日の夜は早く妓家の一間に臥しぬ。
世には父子親友死別の境には虫の知らせと云ふこともありと聞きしに、平生不孝の身にはこの日虫の知らせだも無かりこそいよいよ罪深さ次第なれ」
「かくて夜のあくれば其の年の除日なれば、是非にも帰るべしと既にその仕度せし時、籾山庭後君の許より電話かゝり、昨日夕方より尊大人御急病なりとて、尊邸より頻に貴下の行衛を問合せ来るにより、内々にて烏渡お知らせ申すとの事なり。
余はこの電話を聞くと共に、胸轟き出して容易に止まず。心中窃に父上は既に事きれたるに相違なし。
予は妓家に流連して親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと覚悟を極めて家に帰りぬ」
「母上わが姿を見、涙ながらに父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、壮吉は如何せしぞ。
まだ帰らざるやと。
度々問ひたまひしぞやと告げられたり。
予は一語をも発すること能はず、黙然として母上の後に随ひ行くに、父上は来青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり」
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後年の八重次の回想によれば、八重次は荷風に箱根に連れて行って貰った事はないという。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照ください。
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