昭和16年(1941)
6月26日
・大本営政府連絡会議。
松岡は「国策要綱」の南進と北方問題解決の軽重を問い、対ソ武力行使をドイツと相談せよと統帥部に迫り参謀次長と議論。
この日の審議の終わり。
「外相 陸海軍案ニ対シテハ根本的ニ意見アルカ而シ大体ニ於テ同意テアル。
武藤軍務局長 ソレナラソレヲ(根本的意見を)書イテ出シテ呉レ。
外相 書イテハ出サヌ」。
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6月26日
・参謀本部作戦課、対ソ戦の用兵規模など立案。
昭和16年内の開戦となると、7月5日の動員下命、8月10日開戦決意、9月初頭作戦開始、10月中旬作戦終了と見積もる。
実際には、7月7日動員下命の「関特演」として現れるが、8月9日、年内対ソ武力行使中止を決定。
独ソ開戦直前の極東ソ連軍兵力は、狙撃30ヶ師団、騎兵2ヶ師団、戦車2700輌、飛行機2800機、潜水艦100隻と推定し、独ソ戦の推移過程で、この極東兵力をヨーロッパへ西送する事で、地上兵力が1/2に、戦車・飛行機が夫々1/3に減少する事を必要条件として、用兵規模を立案。
第1段集中として16ヶ師団基幹態勢整備、続いて第2段第1次及び第2次集中として北支の2ヶ師団及び内地の4ヶ師団を満州に集中し、22ヶ師団基幹、85万の兵力をもって対ソ作戦を遂行するというもの。
作戦の季節的制約(厳寒期に大軍団の作戦行動は殆ど不可能)により、昭和16年内に対ソ武力行使を行うとすれば、作戦は結氷期到来(概ね10月中旬)迄に終了しなければならない。
ソ連国境重点地域である東部正面に作戦を発起するとして、ウスリー方面進攻作戦に要する日数は、希望的観測で2ヶ月半~2ヶ月と見積られた。
従って、結氷期から逆算して、作戦開始は遅くとも9月初頭、兵員・資材等の集中輸送に要する日数を逆算し、開戦決意の最終期限は8月10日、その為には7月5日動員下令となる。
北方作戦専用船腹80万トンの徴備が必要とされる。
集中輸送の為の諸条件が満たされても、開戦決意迄に独ソ戦でドイツの早期勝利の見通しが確実でなければならず、極東ソ連軍の兵力西送による減少が希望兵額に達しなければならない。
日本が北方武力行使にあたって怖れている事は、沿海州基地からのソ連爆撃隊による本土空襲で、参謀本部第4課(防衛・防空)が出した判決では、「夜ナラハ十敵機、昼ナラハ二、三十機ノ爆撃各数回ニテ東京ハ灰燼ニ帰ス」という。
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6月26日
・東京のリヒャルト・ゾルゲに再度指令。
赤軍情報部長自ら、日本政府の決定、国境への軍隊移動を報告するよう指令。
ソウルの朝鮮総督府に傍受される。
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6月26日
・木村孫八郎「株式の基礎知識」、資本主義の行き詰まりを説き支那事変を侵略としているとして発禁。
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6月26日
・ハンガリー、ソ連機(実はドイツ機)がカッシャを攻撃したことを口実に対ソ参戦決定。
27日、宣戦布告。午前10時半、バールドン首相、下院で対ソ戦開戦報告。
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6月26日
・フィンランド、対ソ宣戦布告。
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6月27日
・ユーゴスラビアの共産党、ユーゴ人民解放パルチザン部隊(総司令官ティトー)を創設。
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6月27日
・イギリス軍事使節団、訪ソ。
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6月28日
・大本営政府連絡会議。松岡外相、妥協。
「外相 参戦ノ決意ヲ何時カハ独ニ通告セネハナルマイ。自分モ全般ノ情勢上今日ハ未タ参戦ノ時機デハナイト思フ、従ツテ其ノ時機カ来タラ其ノ時ニ通告スレバヨイノデアル。
然シ乍ラ独側ヨリ問合セガアツテ之ニ返事ヲスルノテハ適当デナイ。今云ハザルモ将来云ハナケレバナラヌ様ニナルト思フ。ソコテ帝国トシテ今日参戦ノ決意ヲ定メル必要アリ。
参謀総長 独ニ云フコトハ出来ヌ、情勢有利ニ進展セパデアツテ、過早ニ参戦スルト云フモ有利カ来ナカツタラ変ナ事こナル。
軍令部総長 参謀総長ニ同意見ナリ。」
松岡は、陸海軍が提示する
「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」原案が対ソ戦への日本の参戦意思を明確にしていなと不満で、三国同盟の一員である立場からいっても、南進政策を暫く延期して即時参戦すべきと主張、少なくともドイツ政府へ参戦意思通告をすべきと譲らず、紛糾。
結局28日、即時北進は大勢とはならず、多少の表現修正を加えうえで松岡が「国策要綱」をのむ形で妥協成立。
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6月28日
・ドイツ外相リッペントロップの参戦要請(「日本は躊躇せずに対ソ軍事行動の決定をなすべきである」)、駐日大使オット経由、松岡外相に伝えられる。
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6月28日
・金鵄勲章の叙賜者の内、昭和15年4月29日以降の者から一時金制とする
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6月28日
・南部仏印進駐開始。
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6月28日
・ドイツ軍、ミンスク占領
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6月29日
・ソ連共産党中央委員会、対独祖国防衛戦争遂行を表明。
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6月29日
・ゲーリング、ヒトラー死去の際の後継者に指名される。
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6月30日
・大本営政府連絡会議。
松岡、再度南進の白紙撤回と対ソ参戦求める、4時間の議論の後、原案可決。
この日、軍事参議官会議。
「外相 今日迄独ハ独「ソ」戦争ニハ協力シテ呉レノ程度ナリシモ、本日「オットー」ハ本国ヨリノ訓令ヲ見セ参戦ヲ申込ミタリ。・・・何レニシテモ帝国ハ参戦ノ決意ヲセサルへカラス。
南ニ火ヲツケルノヲ止メテハ如何。北ニ出ル為ニハ南仏進駐ヲ中止シテハ如何。約六月延期シテハ如何。然シナカラ統帥部総理ニ於テ飽迄実行スル決心ナラ八、既ニ一度賛成セル自分故不同意ハナシ」。
松岡がそう言うと、及川海軍大臣が杉山参謀総長に6ヶ月ぐらい延期してはどうだろうかと意見を求め、近藤軍令部次長が塚田参謀次長に小声で延期を考えようと言う。
塚田は杉山総長に断乎進駐敢を意見具申。
杉山・永野が協議し、杉山が統帥部の総意として進駐決行を表明。
近衛は、統帥部がやるというならやりましょうと賛同。
松岡は、他の大臣に異存はないのかと質し、各大臣が異存なしと答え、「国策要綱」は原案通り実行と決る。
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6月30日
・パール・バック「支那の空」、全編悪意を持つ反日的内容として発禁
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6月30日
・ソ連の国家防衛委員会創設。議長はスターリン。全行政権を委任される。
7月19日、スターリン、国防相に就任。
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6月30日
・ドイツ軍、ビャリストク孤立陣地のソ連軍を包囲
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