2012年6月7日木曜日

永禄13年/元亀元年(1570)8月26日 信長、三好攻め(野田・福島攻め)のため摂津天王寺に着陣 [信長37歳]

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-07
*
永禄13年/元亀元年(1570)
7月
・仏、国王シャルル9世、ネーデルランドのオラニエ公ルートヴィッヒ・フォン・ナッサウと会見。
スペイン王フェリペ2世よりフランドル地方を奪う計画を立てる、失敗。
*
7月1日
・信長、近江佐和山城(磯野員昌)を攻めるが守りが堅く、包囲戦に切り換える。
四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀、北に市橋長利、南に水野信元、西の彦根山に河尻秀隆を配置、諸口を封鎖して四方より攻撃。
翌年2月24日、開城。
*
7月2日
・家康、三河凱旋。
*
7月4日
・信長、馬廻衆3騎を従え突然上洛。義昭に姉川の合戦報告。
5日、吉田兼右が信長を訪問。
7日未明、岐阜に向かう。
8日、岐阜に戻る。
*
7月5日
・京都在陣の織田勢、吹田進出の三好三人衆1万3千を攻撃。全滅できず。
*
7月10日
・信長、毛利元就へ、北国情勢と浅井長政「反覆」状況を通知(「且は天下のため、且は倅(信長)家のために、大慶賢察に過ぐべからず候事」)。また出雲・伯耆が毛利氏により「平均」したことを祝し、備前・播磨への出撃については時期を見合わせ織田側より申し入れる旨を通知(「毛利家文書」)。小早川隆景へも同主旨書簡。
*
7月15日
・秀吉、竹生島宝厳寺に寺領を安堵(竹生島文書)。
*
7月19日
・北条氏政、上杉謙信に兵を出して武田信玄を牽制するよう要請。
*
7月19日
・里村紹巴邸で明院良政興行の和漢歌会(「言継卿記」4)。
*
7月21日
・三好三人衆と三好康長・篠原長房・十河存保1万3千、阿波から渡海。
*
7月25日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、ブスコフ、ノブゴロド関係者、大量処刑。
*
7月26日
・松永久秀、三好三人衆に備えて大和・河内境界の信貴山城(生駒郡平群町)に入り。
*
7月27日
三好三人衆1万3千、雑賀衆を誘い、摂津中島天神の森(大阪市北区)着陣。野田・福島(福島区)に要害を構築
これに紀伊雑賀の鈴木孫一、斎藤龍興らが加わる。京都進撃の機会を窺う。
*
7月27日
・筒井順慶500、松永久秀・久通の河内出陣の隙をついて大和十市(とおち、現奈良県橿原市)城に入城。十市城は久秀に降伏した十市遠勝が前年10月に没して以来、家中が筒井派と松永派に分裂。筒井派は、後、筒井氏に属して活躍する十市常陸介(遠長)。
*
7月28日
・武田信玄の正妻三条夫人(50)、甲斐躑躅ヶ崎館で病歿。公卿転法輪三条公頼の娘(次女)。長女は細川晴元に、三女は本願寺顕如に嫁ぐ(如春)。
*
7月29日
・三好方淡路の安宅甚太郎1,500、海路兵庫着。伊丹攻撃。
伊丹城伊丹親興、池田勝政の応援で安宅勢退ける。
*
*
8月
・松永久秀、郡山城攻撃。
*
・徳川家康嫡男竹千代(13)、元服、二郎三郎信康と名乗る。
*
・吉田兼右、兼見(兼和)に家督譲る。
吉田兼倶(兼見の4代前)、天皇・公家・将軍に、しばしば日本書紀を講じ、また将軍義政夫人日野富子に取入り、勢力を自家の勢力拡張に利用、神道管領長上などを僭称。
吉田神社境内に斎場を設け、これに全国3千余を祀り、伊勢神宮神霊がここに遷移したと偽り、ここを日本最高の霊場にしようと企てる(この遷移は結局失敗に終り、吉田家は徳川時代終りまで、伊勢神宮参拝を拒否される)。
しかし、地方の神社に神位を授け、神職に位階斎服の免許証を授与することに成功、吉田家勢力は全国波及。

兼右(兼見の父):
清原宣賢(のぶかた)次男、清原家を出て吉田家を継ぎ、吉田神社神主となる。
宣賢は公家・僧侶に経書を教え、後奈良天皇の皇太子時代侍講、漢学国学に貢献した日本随一の儒者。
晩年、越前朝倉家に出講、一乗谷で病没。
細川藤孝は宣賢の娘の子。従って、兼見・藤孝は従兄弟の関係。
*
8月1日
・徳川家康、江戸城に入府。
*
8月3日
・武田信玄、北条氏規の伊豆韮山城を攻撃。
10日、垪和(はが)氏続の伊豆興国寺城を攻撃。
12日、伊豆韮山城を包囲。
*
8月8日
・フランス、サン・ジェルマン和約締結・第3次ユグノー戦争(第3次宗教戦争)終結
信教と礼拝の自由に関する譲歩事項と限定条項。
大学の門戸がユグノーにも開かれる。
ユグノーは占領しているラ・ロシェル、モントーバン、ラ・シャリテ、コニャックの4安全保障都市獲得。
内戦・謀反の罪に関して関係者全員が特赦により無罪。
聖職者財産、地位、聖職禄と同様にあらゆる没収財産が元の持ち主に返還(ユグノーに転じた枢機卿・司教、地位は以前のままでカトリックに復帰)。
*
8月9日
・三好勢、淡路衆・安宅衆1500率い摂津尼崎に上陸
13日、三好三人衆方安宅信康勢、幕府・信長方の伊丹忠親の伊丹城攻撃。
伊丹勝政・池田勝正(池田城を追放されたが、この時に伊丹城にいた)、これを退ける。
この時、池田勝正と弟知正は敵味方となって戦う。
*
8月10日
・近衛前久、島津貴久へ、京都退去の無念さを語り、信長ではなく義昭の遺恨により帰洛は叶わぬ状況となり、今となっては六角義賢・浅井長政・朝倉義景・三好三人衆を味方とし、自身も出向いて本意を遂げる覚悟を通知(「島津家文書」)。
*
8月17日
・河内古橋合戦。三好勢、河内の三好義継・畠山高政らが守る河内古橋城を攻撃、攻略。
*
8月19日
・秀吉、山城久世荘(東寺領)名主・百姓に年貢納入を命令(「東寺百合文書」)。
*
8月20日
・信長の三好攻め。野田・福島攻め。
信長、岐阜進発、横山城逗留。
22日、長光寺宿泊。
23日、織田勢、横山城進発。長光寺城(近江八幡)着。
この日、信長、三条西洞院本能寺宿陣。二条城に出仕し義昭の大坂攻め同行承認させる。
また、この日、幕府奉公衆・織田軍(濃州衆)先発部隊、摂津へ出陣。
24日、吉田兼右が本能寺に信長を訪ね、塙直政を奏者として弓懸二つを贈る。また、直政と菅家長頼にもそれぞれ銭20疋を贈る。
*
8月20日
・筒井順慶、大和高樋山に築城するた古市郷に放火。大和福住城へ入城。
23日、松永久秀家臣竹内秀勝・中坊藤松、筒井順慶軍を撃退し高樋山まで駆逐。(「多聞院日記」2)
*
8月25日
信長、河内枚方に出陣。枚方の招提寺(枚方市の敬応寺)寺内に布陣。
信長、摂津諸大名に軍令。和田惟政・茨木重朝・伊丹親興・塩川国満・有馬出羽守など殆ど(当主の座を追われた池田筑後守勝正も参加)が応じる。

枚方の招提寺:
8代宗主蓮如13子の蓮淳が道場を開き、ここを中心に守護不入の寺内町を形成。
この年9月、信長は招提寺寺内に対して下間丹後(頼総)の決起訴えに加担しなかったことを称え「寺内の儀、いささかも別条あるべからず」(「枚方市史」)と寺内特権をそのまま保障する朱印状を発行。
この他にこの頃信長に屈伏していた寺内は、近江大津の近松顕証寺、河内八尾の顕証寺(久宝寺寺内)で寺内特権を安堵される。
*
8月25日
・飛鳥井雅敦・烏丸光宣・高倉永相ら・足利義昭軍(公方衆)、摂国へ出陣(「言継卿記」4)。
*
8月25日
・摂津原田城内で内訌。城等を焼いて家臣が分裂。
原田地域は、伊丹から東への連絡路確保のための要地で、(当主を追われた)池田勝正が主導的に政治的・軍事的策動を行ったと考えられる。
10月頃、池田勝正は原田城に入る。
*
8月26日
・信長、足利義昭を奉じ旗本3千率い摂津天王寺着陣。軍勢3万も前後して着陣。松永久秀らの参陣加え5万。
「公方親征」で召集された紀州根来衆5千、雑賀3組の雑賀衆、湯川衆も参陣(計2万、鉄砲3千、9月4日)。
信長、先陣を野田・福島(大阪市都島区・福島区内)両城に密着させ、諸勢には野田・福島砦を囲むように天満の森から川口・渡辺・神崎・上難波・下難波を貫き浜の手までに及ぶ陣地を築かせる。
野田・福島には、細川昭元・三好長逸・三好康長・安宅信康・十河存保・篠原長房・岩成友通・香西佳清・三好政勝ら三好党および斎藤龍興・長井道利らの南方諸牢人約8千が篭もる。
香西佳清と三好政勝(政康の弟)が内応するが警護厳しく謀略断念、28日、両名は脱出、天王寺に走る。

本願寺は信長本陣の天王寺と先陣が布陣する間に挟まれる。
顕如(28)・下間3家老(下間頼資・頼康・仲之)は事態の深刻さを憂慮。
*
8月27日
・本願寺顕如光佐、紀州門徒に本山護持促す書状出す。9月9日にも。
*
8月28日
・三好政康の弟為三入道(三好政勝)・香西越前守ら、織田勢につく。
*
8月30日
・武田勝頼、信濃諸士に命じて駿河沼津城の普請を行わせる。
*
8月30日
・足利義昭2千、摂津に出陣のため京都を発つ(「兼見卿記」1)。
*
*


0 件のコメント: