2016年4月21日木曜日

應永23(1416)年 ヒエロニムス(51)火刑 上杉禅秀(前の関東管領氏憲)の乱(今川範政が追討軍を組織) 将軍足利義持弟義嗣の謀反(義嗣は出家)

鎌倉 大巧寺 2016-04-19
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應永23(1416)年
この年
・堅田全人衆の紺屋二郎三郎法住・研屋道円・麹屋太郎三郎衛門、大谷本願寺から真宗を導入し、堅田本福寺門徒団が形成される。
全人衆には紺屋、鍛冶屋、研屋、油屋、麹屋、舟大工などの商人・手工業者がおおい。
門徒化した全人衆は、主に宮ノ切~西ノ切(西浦)の堅田南部に集任。
「全人」とは「殿原」に対するこの階層の自称で、「本福寺跡書」の中で「全イ人ソ」「タレハ全ソ」などの用例で見られる正直(者)ということ。

堅田は、北国・畿内を結ぶ湖上交通を管理する関として、対岸の湖東への渡しとして、また下鴨社の御厨で漁業に携わる供御人たちの集住地として重要な役割を果してきた。
堅田は、諸浦に優越する漁業権や舟運の「上乗り権」に基づく関銭徴収権などにおい特権を有している。
堅田の「町」は、元来堅田大宮(賀茂社)の「御室ノ町」であったのが、商人・手工薯の集住によって、加えて本福寺のちには一家衆寺院の称徳寺(後に慈教寺)創建によって、門徒の町、寺内町のように発展、ルイス・フロイスは、「坂本より二レグヮの甚だ富裕なる町堅田」(『耶蘇会日本通信』)といわれるようになる。

15世紀の堅田住民は、
①供御人の系譜を引くと考えられる根本住人「殿原衆」と、
②堅田の経済発展に伴って移住定着した「渡り」の子孫の「全人衆」の二重構成をとる。
③その他「マウ人、タヒウ人、譜代家人、下部」の下層民から成る。
居住地域は、兵野川・天神川(衣川)河口の砂洲が、南北約2.5kmて突き出ている所で、宮ノ切(北浦)、東ノ切(東浦)、西ノ切(西浦)の堅田三方に今堅田を加えて堅田四方という各小村落に区分される。宮ノ切には堅田の鎮守堅田大宮(賀茂神社)があり、住民はその宮座に組み込まれている。
村落共同組織である堅田惣荘の指導層は、殿庶衆で、「堅田侍」「地下ノ侍」などといわれ、血筋を誇り「王孫」などと称し、家紋を同じくする居初党、小月党、刀祢藤の3同族団を形成、堅田大宮の宮座の座次において、あるいは神事において特権的地位を持っており、その他政治的・経済的関係において優位な地位を占めている。
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・この年、チェコ国王ヴァーツラフ立ち会いのもとでカトリック代表とフス派代表の話し合い。
「演説・説教をもって人々を扇動しないこと」を条件として、プラハ市の聖ミカエル、聖マルティン、聖ニコラウス、聖ステファン、聖アダベルト、フロー・ライヒナーム、ベトレヘム礼拝堂などでのフス派説教が許される。
市内ではフス派の影響力が増大、カトリック派との衝突。
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・フィリピン、スル族使節、明朝皇帝により手厚く埋葬されたとの記録。
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2月
・ヒエロニムス再審問。
公会議決定に従うように求められるが「会議の言うことはすべて歪曲され、捏造されたものだ」とこれを否定。
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3月1日
・神聖ローマ皇帝ジギスムント、教会分裂を終らせ、英仏間の調停のためパリ到着。
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4月2日
・アラゴン・シチリア王国フェルディナンド1世、没(位1412~1416)。
長男アルフォンソ5世、(20)、即位(位1416~1458)。
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5月
・これより先、若狭守護一色義範、侍所頭人となりる。
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・皇帝ジギスモント、イギリス訪問。
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5月19日
・ヴェネツィア艦隊、ガリポリでオスマン海軍撃破。ガリポリ奪回。
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5月30日
・ヒエロニムス(51)火刑
プラハ、コンスタンツ公会議第21回総会。フス処刑と同じ場所火刑。
フスと同じくオックスフォード大に留学、ウイクリフをプラハに移植。
彼は、形式的撤回で済むと考えて、一度はウィクリフとフスの説を否定するが、再びこれを取り消し、公会議の場でウイクリフとフスを公然と弁護。
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7月
・コンスタンツ公会議。
ポーランド使節、ドイツ騎士修道会を批判。
(結論52)異教徒との無差別の戦争を正当とする観念がこの戦争を引き起こした。異教徒を無権利者として法の保護外におく理論「オピニオ・オスティエンス(ホスティエンスの見解)」に立脚。
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8月2日
・伊豆大島噴火響雷の如し。
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8月15日
・カンタベリ条約締結
英ヘンリー5世と神聖ローマ帝国皇帝ジギスムント同盟。但し、実質的なキリスト教世界の分裂は収束せず。コンスタンツ宗教会議成立の土台となっていたデリケートな外交バランスが崩れ、フランス・スペイン対ドイツ・イングランドの対立。
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9月9日
・伊豆大島再度噴火。
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9月16日
・広橋兼宣、吉野より後亀山法皇を迎える。
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10月
・ブルゴーニュ公無畏公とヘンリ5世の協定。
ヘンリ5世をフランスの王位継承者とする。イングランドの北フランス作戦すすむ。
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10月2日
・上杉禅秀の乱
足利満隆・上杉氏憲(禅秀)、鎌倉を襲撃。鎌倉公方足利持氏敗走。今川範政・上杉房方ら、討伐に向かう。 

足利満隆御内書に上杉禅秀(氏憲)が副状を付けて廻文を回し、持氏・憲基追討命令が出たと見せかけて募兵。
結集した者:
千葉介兼胤・岩松満純(2人は禅秀の婿)。渋河左馬助、舞木太郎、児玉党では大類、倉賀野、丹党の者、その他、荏原、蓮沼、別府、玉井、瀬山、甕尻。甲州からは武田信満(禅秀の婿)、他に小笠原の一族。伊豆からは狩野介一類。相州からは曾我、中村、土肥、土屋。常陸からは名越一党、佐竹上総介、小田太郎治朝、府中、大掾、行方、小栗。下野からは那須資之、宇都宮左衛門佐。陸奥は篠川御所足利満直に頼んだため、蘆名盛久、白川、結城、石川、南部、葛西。海東四郡の者。鎌倉在国衆では、木戸内匠助父甥、二階堂、佐々木一類ら100余。

戌の刻の頃、満隆(持氏の叔父)・持仲(持氏の弟)は殿中から西御門宝寿院に移動し旗を揚げる。
夜、犬懸の郎党の屋部・岡谷両人が手の者を引き連れ、塔辻に下り、処々に堀切・鹿垣を結い、走り矢倉を上げ、持ち楯をつき、家々の幕をうち、一揆の旗を立てる。
木戸将監満範は、泥酔して寝ている持氏を足利公方邸(鎌倉市浄明寺4丁目、金沢街道沿い)から岩戸の上の山道を辿り十二所~小坪~前浜~佐介(上杉憲基の館)に送り届ける。従う者500余。

4日未明より双方の軍勢が動く。
①浜方面の法界門に上杉憲基の手勢。甘縄口小路に佐竹左馬助。薬師堂方面に結城弾正。無量寺に上杉憲長、気生坂(化粧坂)に三浦相模の人々、扇谷を上杉氏定父子。
②足利満隆は宝寿院を出て馬廻り1千余で若宮小路に布陣。千葉満胤、嫡子兼胤、同陸奥守康胤、相馬、大須賀、原、円城寺下野守ら8千余が米町表に控える。佐竹上総入道、嫡子刑部大輔、二男依上三郎、舎弟尾張守の一類に、土佐美濃守、三河常陸介の郎党、河合淡路守、長瀬河西の者ら150余は、浜の大鳥居~極楽寺口に布陣。
③上杉禅秀の勢は、嫡子中務大輔(憲秋。憲顕とも)、舎弟修理亮等、千坂駿河守、子息岡谷豊前守、嫡孫孫六、甥弥五郎、従弟式部大輔、塩谷入道、舎弟平次左衛門、蓮沼安芸守、石河助三郎、加藤将監、矢野小二郎、長尾信濃守、同帯刀左衛門、坂田弾正忠、小早川越前守、矢部伊予守、嫡子三郎、その他、臼井、小櫃、大武、沓係、太田、榊田、秋元、神崎、曾我、中村の者ら2千余が鳥居の前から東に向かって、鉾矢形に布陣。

6日、反乱側10万、六本松に押し寄せる。
上杉氏定が扇谷から駈け付け防戦。岩松満純・渋川左馬助が入れ替わり攻撃、鎌倉公方勢の上杉上野介松山城主と疋田右京進が討死、氏定も深手を負う。気生坂(化粧坂)では梶原但馬守・椎津出羽守が討死、飯田・海上・園田四郎も痛手を負い無量寺に退く。国清寺(上杉憲顕建立)・佐介(上杉憲基の館)に火がかかり、持氏を館から落ち延びさせる(憲基が従い、極楽寺口~肩瀬腰越の汀~黄昏頃、小田原に到着)。扇谷上杉氏定(43)は深手を負い、藤沢道場(遊行寺)で自害。

土肥・土屋の者らが小田原の宿に押し寄せて火をかけて攻め込み、持氏・憲基は逃亡、兵部大輔憲元父子・今川三河守が討死。
持氏・憲基は、夜、箱根山に入り、翌7日、駿府の今川範政(氏定の聟)を頼るため駿河の瀬名に向う。持氏は伊豆の国清寺に滞在と聞いた木部将監らはここに集る。

10日、反乱側の狩野介と伊豆奥の兵、走湯山の大衆らが大軍で国清寺に押し寄せ合戦。木部将監満範ら21人自害。上杉憲基は越後に、公方持氏は瀬名に落ちる。

下野守護結城基光は持氏側につき、乱後、持氏が禅秀側についた豪族を弾圧したことで大きな利益を得る。基光は、鎌倉佐助谷の山内上杉邸に脱出した持氏を護衛し、応永24年閏5月には禅秀の残党を追捕して功を挙げる。

幕府は、鎌倉公方持氏方を支持し、越後守護上杉房方・駿河守護今川範政・信濃守護小笠庶政康等を持氏支援に派遣。
乱後は、禅秀(氏憲)方の東国武士や反持氏的動きの常陸・甲斐・東北の豪族層を「京都扶持衆」として組織していく
(この扶持衆は、上杉氏が組織した武蔵・上野の白旗一揆と共に、20数年後の永享草の乱において幕府方(管領上杉憲実方)の軍事力として活躍し、鎌倉公方持氏を没落させてゆく)。
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10月20日
・将軍足利義持弟義嗣の謀反。
将軍足利義持、謀反を企てる弟義嗣の捕縛命令。林光院に押し籠め、厳しく見張りを付ける。義嗣は出家(法名道縄)。

義嗣は故足利義満の子。義満は義持を隠居させ、義嗣を将軍につける意思を持っていたが、実現前に没。その後、義持・義嗣は不和。先年、伊勢国司北畠満雅の乱の際、義嗣も謀反を考えるが、間もなく伊勢が鎮定される。
この頃、関東で鎌倉公方足利持氏と前関東管領上杉禅秀(氏憲)の不仲を伝え聞き、上杉禅秀(氏憲)と足利満隆(持氏の叔父)を誘う。禅秀は満隆と語らい、初秋から病気と称して引き籠もり謀反を企てる。

加賀守護富樫氏の下で糾問されていた義嗣の「自白」は、幕府政治形態の2つの潮流の対立を明確にし、一定の決着をみる契機となる。
①義持近習富樫満政によって推進されようとした将軍義持-近習勢力の結合による将軍専制の方向、
②管領家や赤松・山名・土岐氏などによって推進されようとした管領を中心とする有力幕閣の合議制的方向。
義嗣の「自白」によって、義嗣与同者として斯波・細川・赤松氏が詮議され(「看聞日記」応永23年11月25日条)、土岐氏は伊勢守護職を没収され、山名氏は出仕を止められ、畠山氏も詮議される(「同」応永25年6月6日条)。
幕閣有力者殆どがその対象となり、このまま進めは、管領以下の有力守護層による幕政運営は挫折せざるを得なくなる。しかし、義持近習富樫満政は失脚(「同」応永25年11月24日条)。
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11月8日
・ヴェネツィア、ガリポリでの勝利者ピエトロ・ロレダンの帰国のために大祝宴
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11月21日
・大将軍足利持仲・大将上杉憲方(禅秀の子憲顕=憲秋の弟)の軍勢、武州に向う。この日、机辺に布陣。
鎌倉公方足利持氏に味方する江戸・豊島・二階堂下野守・南一揆・宍戸備前守の兵が入間川に布陣。
23日、入間川に到る途中の谷原で合戦。持仲・憲方軍が敗北、25日、追撃を逃れて鎌倉に戻る。
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12月
・駿河の今川範政、京都に注進。
禅秀一類、足利持仲追討の御教書下り、今川は、関東諸家に回状。朝比奈・三浦・北条・小鹿氏は箱根を越え、伊豆山宗徒と土肥・土屋・中村・岡崎を落とし小田原国府津前川布陣。
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12月6日
・松山城主上田上野介、鎌倉六本松にて討ち死。
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12月18日
・上野で禅秀婿の岩松治部大輔満純が新田を名乗り、館林に討って出て国中の過半を従える。
この日、甲良・横瀬・長尾但馬守が鎌倉公方足利持氏に味方して岩松と合戦。岩松の家老金井新左衛門が討死。岩松勢は退くが、22日、再び押し寄せる。横瀬・長尾は勝ちに乗じて応戦、これを追い散らす。
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