『朝日新聞』2016-04-12
*憲法を考える 自民改憲草案 公の秩序
(上) 国民向け「道徳」 条文に 2016/4/12
(略)
自民党の憲法改正草案12条は、こう規定している。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
「公の秩序」とは何か。自民党の草案Q&A集は、次のように説明する。
「個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません」
Q&Aと併せて条文を素直に読めば、私たちの自由や権利は、社会に迷惑をかけない限りでしか認められないということになりそうだが、そもそも迷惑は、そう感じる人がいれば成立するので限りがない。
「権力縛る役割」が逆立ち
現行憲法12条は、国民は自由や権利を「常に公共の福祉のために利用する責任を負ふ」と定める。それに比べると、草案の「常に公益及び公の秩序に反してはならない」は、命令口調で違和感を覚える。憲法は本来、権力を縛るためのものなのに、この逆立ちした発想はどこから来ているのだろう。
15年ほど前から、国会の憲法論議をみているが、驚いたのは、自民党の国会議員がしばしば「十七条憲法」を引き合いに出すことだ。実際、自民党草案の前文にも「和を尊び」の文言が入り、Q&A集はその理由を「和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である」との意見が出たからと説明している。
しかし、聖徳太子が作ったとされる十七条憲法は、どう生きるべきかを書いた道徳である。和をもって貴しとなす。人に迷惑をかけるな。なるほど自民党草案は、日本社会の「見えない掟」を可視化したものなのかもしれない。でも、それでいいのか? 京都大学の曽我部真裕教授(憲法)は言う。
「社会のルールは、異議申し立てを受けながら、常に問い直され、発見されていくものです。『公の秩序』を憲法に書き込もうという発想からは、その視点が抜け落ちています」
和は尊いし、迷惑はかけないに越したことはない。しかし人間、そうはいかないこともある。
(編集委員・豊秀一)
憲法12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
(中) 生き方規定 息苦しくないか 2016/4/13
「誓約書」と書かれたA4判1枚の紙がある。
「パチンコ、競輪場に立ち入った事は、まじめに努力している他の被保護者に迷惑をかけることとなり誠に申し訳ありません。今後は(生活保護)法第60条を順守し、もし違反した場合は保護廃止されても異存はありません」
大分県別府市の福祉事務所が作った。同市の職員は年に1回パチンコ店を見回り、生活保護受給者を発見した場合は誓約書にサインさせ、違反が重なると支給停止の処分をしていた。
昨年末、このことが報じられると、全国から200件を超えるメールが市に届いた。
「この素晴らしい取り組みを続けていただきたい」
「もっと税金を投入して強化していいと思います」
同市社会福祉課によると、9割以上が市を支持する内容で、賛同の意思を示すふるさと納税も4件(9万円)あった。
しかし、生活保護法にパチンコなどを禁じる規定はない。県から「不適切」と指摘を受け、市は3月、パチンコ店にいたことだけを理由に処分はしないと方針を変えたが、「見直し反対」のメールがいまも届く。
(略)
生活保護への世間の厳しい視線を反映するかのように、兵庫県小野市は2013年、生活保護費をパチンコや競輪などに使っている人を見つけたら、速やかに市に通報する「責務」を市民に課す条例を作った。
改めて考えたい。自分の生き方は自分で決める。これが憲法の大原則だ。私たち一人ひとり、自由と権利を有している。
申し訳なさそうに肩身を狭くして、清く、正しく生きることを求められる受給者。「常に公益及び公の秩序に反してはならない」(自民党憲法改正草案12条)。憲法がそう規定する社会はおそらくとても、息苦しい。
(編集委員・豊秀一)
(下) 少数派を守るのが立憲主義 2016年4月14日
4月3日朝のNHK「日曜討論」。自民党憲法改正草案12条「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」の文言をめぐり、激しいやりとりがあった。
志位和夫・共産党委員長
「『公益及び公の秩序』のためには、基本的人権を制約できるという内容が入っている」
高村正彦・自民党副総裁
「いまの憲法の『公共の福祉』という言葉を置き換えただけ」
志位氏
「『公共の福祉』はいろんな人権がぶつかりあった時にそれを調整する概念。『公益及び公の秩序』は、国家目的のために人権を縛る。まったく違う。立憲主義の破壊です」
高村氏
「それはまったく違います。『公共の福祉』なんて言葉はわかりにくいですよ、いままでの日本語からいって。我々の概念も(公共の福祉と)同じです」
議論は平行線をたどったが、さて、単に言葉が置き換わっただけだろうか。
私たち一人ひとりの顔かたちが違うように、考え方も価値観も違う。人も国も自分が正しいと思うことを他人に押しつけたくなるもので、ゆえにそれぞれの大切な権利がぶつかり合うこともある。
そんな時、「公共の福祉」という考え方を用いて、全体のバランスの中で調整していくというのが、憲法の知恵だった。そのものさしが「公益や公の秩序」に変われば、状況は大きく動きかねない。
世の中には、社会に迷惑をかけてでも、守らなければならないものがある。
例えば、デモ。石破茂・地方創生相はかつて、特定秘密保護法反対デモをテロに例え批判を浴びたが、うるさくても、交通の邪魔になっても、議会制民主主義を補完する、主権者に認められた大事な手段だ。
歴史は教える。憲法を真に必要とするのは、多数派に異論を唱えたり、社会的に少数派だったり、要は「変人」だということを。憲法の教科書のページをめくれば、自らの尊厳や権利を守るために裁判で闘ってきた人がいて、幾多の判例の積み重ねが、単なる文字の羅列に過ぎなかった憲法に内実を与え、その蓄積の上に、私たちが立っていることに気づかされる。
自分は少数派にはくみしない、多数派の流れに沿っていくという選択も、当然あるだろう。そのような人はおそらく憲法なんて意識せずとも生きていける。幸せな人生に違いない。
憲法を考える。それは、国家権力から私たちの自由や権利がちゃんと守られているかどうかを点検する作業だ。憲法は権力を縛るためのものだという立憲主義の考え方が、安全保障法の審議を通じて広く一般に知られるようになったことは、立憲主義が危うくなっていることの裏返しでもある。
この70年、多くの人は、立憲主義なんか意識せずに生きてこられた。振り返ってみれば、幸福な時代だったと言えるのかもしれない。
(編集委員・豊秀一)
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自民党の高村って、これで弁護士か?
もし弁護士だったとしたら、
昨年、砂川判決を持ち出したときもそうだったけど、条文や文字の表面しか読めない弁護士なんだな。
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