東京 上野公園 2016-06-30
*(その9)より
1990(平2)64歳
11月、翻訳詩集『韓国現代詩選』花神社刊。
(収録作品)
別れる練習をしながら
突然 間違って生きているという思いが
茨木が計十二人、六十二編の詩を収録した『韓国現代詩選』を刊行したのは一九九〇(平成二)年である。十二人の中には、洪充淑はじめ、抵抗詩人として高名な金芝河、東京高等範学校(現・筑波大学)の出身で酒樽先生という異名をもつ趙炳華などが含まれている。韓国語を学んで十四年目、区切りとなる仕事であった。
訳詩とともに、それぞれの詩人について簡素なコメントを付与して本が編まれている。
「あとがき」によれば、詩人と詩の選択は、一九八〇年代における韓国詩人たちのおよそ五十冊の詩集から「カンだけを頼りに」選び出したとある。
詩訳にさいしても、金裕鴻との間に何度か手紙のやりとりがあった。ただ、金によれば茨木の韓国語の読解力は高水準に達していて、手伝ったのは語意の確認程度であったという。
(『清冽』)
■あとがき
私がたどたどしくハングルを学んでいたこの十数年間に、韓国はいつのまにか詩の熱い時代に突入していた。
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現在、ソウルの大きな本屋・・・に行ってみると、詩集コーナーの大きさに驚かされる。八重洲ブックセンターや紀伊国屋の詩集コーナーに比べたら、六、七倍、いえ、もっと大きいかもしれないという豊饒さ。
更に驚かされるのは、詩集コーナーにむらがる若者たちの熱気である。高校生から大学生ぐらいの青年男女が、むさぼるように詩集を読んでいる。人目なんかまるで気にしていない。
ときには迷彩服を着た兵士が、たまの休日に駆けつけたという様子で、片足を壁にくっつけ片足で立ったまま忘我の状態で読み耽っている。一隅では一人の女子学生が詩集の頁をくりながら低く澄んだ声で朗読し、その友人二人が声をたよりに必死にノートに書き写したりしている。別のところでは、しゃがんだまま、しきりにメモっている高校生。午後にでも行けば、それらの人々をかきわけて詩集を探すのが容易ではない。
隣国のひとびとの詩を好むこと尋常ならず。
日本で詩と言えば、俳句、短歌、自由詩と分散されてしまっているが、韓国では目下、自由詩一本槍で、ひとびとの情感の飢えを満たすものとして、また述志の形式として欠くことのできないものなのかもしれない。
なんでもない手紙に自作詩を書き添えたりするのも、日本で言ったら、腰折れ一句で挨拶を……といった感覚だろうか。
立読みであれ、熱い視線に吸いとられてゆく詩の姿は、かなり羨ましい状態である。ベストセラーになる詩集も多く、三十万部くらいは軽くいってしまうらしい。
日本では大きな本屋でも、詩集コーナーはどんどん縮小され身を細らせていっているし、読者も寄りつかず閑古鳥が鳴いている。
まるっきり違う光景に呆然とし、ノートを取ったりしているのは、若者にはやはり一冊の詩集は高価すぎるのかと思っていたのだが、ある大学教授が語ってくれたところによると、
「あれはねえ、アンソロジーを作るためですよ。じぶんの好きな詩人を選んで、そのなかの更に好きな詩だけを集めて、自分一人だけのアンソロジーを作るのです」
それでようやく納得がいった。考えてみれば、これこそアンソロジー(詞華集)の原義ではないだろうか。
私もこの少女たちに倣いたいと思った。独断や偏見を恐れずに、一九八〇年代の、それぞれタイプの異なる、自分の気に入った詩だけを集めてみたいと。そして、時代の流れと共に、そう簡単に消え去ってはしまわない、独立性の高い詩だけを集めてみたいと。
・・・
まったく一種のカンだけを頼りに、五十冊ぐらいの詩集のなかから選びとったものだが、みずから選んだ六十二篇の詩には深い愛着を覚える。
訳す過程で、ハングルにはハングルの豊かさがあり、日本語には日本語の豊かさがあると痛感させられた。あたりまえのはなしだが、実際の作業のなかで、しみじみと具体的に感じさせられたのが私にとって一番の大きな
収穫であったかもしれない。
そして、いい詩は、その言語を使って生きる民族の、感情・理性のもっとも良きものの結晶化であり、核なのだと改めて思う。
奥深いところで、深沈と息づく天然の大粒真珠のようなもの。
今までその所在に気づかなかったのは、なんと勿体ないことだろう。
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1991(平3)65歳
2月、『韓国現代詩選』にて読売文学賞受貨。
5月、韓国への旅
『韓国現代詩選』は一九九〇年の読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞しているが、茨木にとって賞と名のつくものはこれが唯一のものである。筑摩書房の中川美智子は「今回は私じゃなくて韓国の詩人たちが受賞するのだから」という茨木の言を記憶している。だから辞退しなかった - とも聞こえた。文学賞の類は通常、受賞者の内諾を得て発表されるものであるが、どうやら茨木はあらゆる賞の類を断ってきたらしい。それもまた茨木らしいと中川は思うのである。
(『清冽』)
1992(平4)66歳
12月、第七詩集『食卓に珈琲の匂い流れ』花神社刊。
(収録作品)
なかった
さくら
瞳
問い
1994(平6)68歳
8月、選詩集『おんなのことば』童話屋刊。〔68歳〕
9月、文庫『うたの心に生きた人々』ちくま文庫から刊行
11月、エッセイ集『一本に茎の上に』筑摩書房より刊行
■「女へのまなざし」(『一本に茎の上に』の一章)
(初出;「金子光晴」(「ちくま日本文学全集9」解説)1991年6月)
きちんと調べたことはないが、金子光晴の全作品のうち、その半分以上は女がテーマになっているだろう。
「僕のしごとにしても、ことごとく女性に捧げるつもりで書いたものが多く、エロティカルということは、もっと女の近くにいたいという意欲の端的な心入れ」
と本人も書いている。こどもの頃から八十一歳で生涯を終るまで、よく飽きもせず女を視つづけたものだと感心する
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やぶれかぶれの遍歴に一見みえるが、明治生まれの男性でこれほどていねいに、ていねいに、女ととことんつきあった人は稀であろうと思う。女という異性を通して人間を視るということだったのかもしれない。
しかも日本の女ばかりではなく、中国、東南アジア、ヨーロッパと多彩で、女を通してそれぞれの国の文化の内奥に迫るという回路を持っていた。
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女たちへのシンパシイに溢れながら、科学者の持つ冷静な眼のようなものも同時に感じさせられる。冷徹ではあるが冷酷ではない。これは永井荷風の女への対しかたなどに比べるとよくわかる。
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敗戦直後、ほとんどすべての日本語という日本語は色褪せた。その時、ひとり金子光晴の詩と散文だけが身に沁み通ったという経験を持つ人々は多い。
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ヒッピーの元租でもあり、西行や芭蕉、山頭火など放浪型の詩人はこの国に多かったが、女(妻)づれで、いちかばちかの外国放浪を果したのも初めての人ではなかったろうか。
「モンココ洗い粉」「ジュジュ化粧品」の嘱託となり、パッケージや広告担当で大いに売ったから、コピーライターの草分けでもあった。
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金子光晴と恋に落ちた森三千代が、妊娠してしまい、そのため、お茶の水女高師を退学させられ、中学校長だった三千代の父は、一度は驚いて駈けつけるが、二人を引き離そうとした事実はなく、むしろ終生、支援の側に廻っている。
中国で出会った魯迅も、金子光晴に好意を持ったようだし、この二つのエピソードから、彼はただの根なし草の、へらへら坊だったのではなく、どこか見どころのある魅力に富んだ若者たったのだろうと思う。
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飄々とした雰囲気は、すでに女に関する〈免許皆伝〉かとも思われ、さらに言えば、男女の別さえ突き抜けていた。本来、人と人とは対等であるということが、これほど血肉化され、体現できている男性が日本にも居た! というこころよい驚き。
話も抜群におもしろくて、ある日、
「家にくる家政婦さんがね、もう年なんだけど、ドリフターズのいかりや長介に夢中でねぇ、ぼくはどうも腑に落ちなくて、森(三千代)に聞いたの、そうしたら、あなたその年になってもまだ女がわからないの? 古今東西、女は有名人好きに決ってるじゃありませんか、てぇの」
夫人にかかっては、かたなしであった。
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「堕落することは向上なんだ」といい、絶望しなから意気軒昂という逆説を生き抜き、八十歳を過ぎてもおどけまくったその生涯と作品こそは読むに足るものになってゆくのかもしれない。生きかたそのものが詩であり、なにしろ日本人の幅を大きく拡げてくれた人なのだから。
道草をくい、てくてく歩き廻り、よそ見ばっかりして、いわゆる大人の分別からも遠く、いったい何だやら・・・のところもあるのだが、ベルトコンベアに乗り、グリーン車で終着駅まで、あとはさっさと墓場に入っていったつまらない人達に比べたら、彼はゆったりと、おいしい実を、確実に、いっぱい採ったのだ。危険を冒しながら。
それは後の世の人々をも潤してくれるドリアンのような果実である。
(その11)につづく
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