2018年9月1日土曜日

(自分用メモ)大正12年年表(ラベル「大正12年記」)改定の経緯 

ようやく、西崎雅夫『関東大震災 朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』による大正12年の年表改定が一段落した。
今回で三度目の増補改訂になるので、本日から【増補改訂Ⅲ】をスタートさせる。
混乱するので、自分用の整理メモとして改定経緯を纏めた。
全て増補(追加形式)になっているので、既述の重複はない。
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佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』
松下竜一『あるアナキストの生涯 久さん伝』
松下竜一『ルイズ 父に貰いし名は』による増補改訂(未完)

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その11) 復讐(1) 甘粕実弟襲撃失敗 大杉の葬儀の日に遺骨を奪われる
2017/10/14

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その10) 大杉・伊藤の4人の遺児たち
2017/10/10

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その9) 「死因鑑定書」と甘粕供述の相違(甘粕のウソを暴く) 遺体引取りから荼毘に付すまで
2017/10/2

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その8) 戦後、明らかになった証言・資料 宮崎清隆『憲兵』 正力松太郎談話(安成二郎メモ)
2017/10/1

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その7) 12月8日 判決(甘粕=懲役10年、森=懲役3年、他3人は無罪) 内田魯庵の感想 塚崎直義『辨護三十年』 上砂勝七『憲兵三十一年』
2017/9/29

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その6) 11月16日 第2回軍法会議 新たに加わった被告3人が甘粕単独犯行説を否定し、軍の関与を暗示する
2017/9/27

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その5) 10月8日 第1回軍法会議(午後の尋問) 甘粕が子供の殺害を否認する
2017/9/25

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その4) 10月8日 第1回軍法会議(午前の尋問) 大杉殺害の様子が検察官調書と微妙に異なる
2017/9/24

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その3) 暗殺の準備(甘粕麹町憲兵分隊長を兼任する) 軍法会議(10月8日~) 甘粕非難の声と減刑嘆願運動
2017/9/23

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その2) 20日、福田雅太郎関東戒厳司令官更迭などの処分 24日、軍法会議検察官談話 25日、遺体引取り   
2017/9/21

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一ら麹町憲兵隊で虐殺される(犯人とされた憲兵大尉甘粕正彦、懲役10年、3年で仮出獄)。 19日、検察官取り調べ。22項目の甘粕供述。
2017/9/20

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西崎雅夫『関東大震災 朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』による増補改訂(一部)

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月5日 荒川区、北区、江東区/大島・旧羅漢寺の証言 「軍隊も巡査も、あとはいいようにしろと言わんばかりに消えちやって。さあもうそのあとは、切る、刺す、殴る、蹴る、さすがに鉄砲はなかったけれど、見てはおれませんでした。16人完全にね、殺したんです。50~60人がかたまって、半狂乱で。」
2017/9/18

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月4日(その4) 品川区/品川・北品川・大崎、渋谷区の証言 「実は猟師町の一青年の鮮人と誤解せられ、瀕死の重傷を負えるなりしかばこれを品海病院に護送して手当を加えたれども数時間にして絶命せり。」
2017/9/17

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月4日(その3) 江東区/大島/亀戸/旧羅漢寺/丸八橋・新開橋の証言 「.....ぼくは愕然として、わきへとびのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、ぼくはいいようのない怒りにかられた。日本人であることをあのときほど恥辱に感じたことはない。」
2017/9/16

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月4日(その2) 大田区、北区、江東区/大島の証言 「今の江東区大島8丁目、富士急行バス営業所のあるあたり...3日の午後になってから、...沢山の死体が運びこまれてきた。.....ある人は300体くらいあるだろうといい、またある人は300体ではきかないといっていた。」
2017/9/15

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月4日(その1) 足立区、荒川区、板橋区、江戸川区の証言 「今井橋...。9月4日頃だったか、3人ばかりがひっぱられ軍隊に引渡され、夕方暗くなってから鉄砲で殺されるのを見た。後ろ手にゆわえられたまま川の中に飛びこむのを見た。」
2017/9/14

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その4) 江東区/亀戸/亀戸警察署/深川/丸八橋・新開橋の証言 「亀井戸警察署の練武場.....。このとき指揮者は、銃声がきこえると附近の人に恐怖感を与えるから、銃の代りに刀で殺せと命令した。そこで軍人たちはいっせいに刀を抜いて83名を一時に殺した.....」
2017/9/13

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その3) 江東区/永代橋・越中島付近/大島の証言 「9月3日大島7丁目に於て、鮮人放火嫌疑に関連して支那人及び朝鮮人300名乃至400名3回にわたり、銃殺または撲殺せられたり。」
2017/9/12

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その2) 葛飾区、北区の証言 「荒川の船橋(渡し)のあたり、赤羽寄りに20~30名の死体が浮いているのを目撃した。朝鮮人の死体だと言われたのを覚えている。また、上野駅でトラック一杯の血まみれになった朝鮮人を見た。」
2017/9/11

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その1) 足立区、荒川区、江戸川区、大田区の証言 「.....小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者200名も兵を指揮し惨ぎゃくした。婦人は足を引張りまたを裂き、あるいは針金を首に縛り池に投込み、苦しめて殺したり、.....」
2017/9/10

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その7) 江東区/深川、品川区/荏原・戸越の証言 「...かくて民衆の手に依りて逮捕し、本署に同行せるもの少なからざりしが、概ね沖縄又は伊豆大島の人なりき、然れども人心はこれが為に興奮して自警団の横行を促せり。」
2017/9/9

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その6) 江東区/旧羅漢寺・砂町・州崎の証言 「もう2日にはいわゆる朝鮮人狩りが始まったのです。.....これらを羅漢寺の墓地へつれて行きまして、そこで自警団の連中が竹槍または刀で惨殺したのです。」 「砂町尋常小学校の校庭に.....」  
2017/9/8

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その5) 江東区/亀戸・亀戸警察署の証言 「〔習志野騎兵連隊が〕亀戸に到着したのが〔2日の〕午後の2時頃、...1名の朝鮮人が引摺り下ろされた。.....これを以って劈頭の血祭りとした連隊は、その日の夕方から夜にはいるにしたがっていよいよ素晴らしいことを行(や)り出したのである。兵隊の斬ったのは多くこの夜である。」
2017/9/7

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その4) 江東区/永代橋・越中島付近/大島の証言 「〔2日、永代橋で〕橋を渡り切った橋ギワに朝鮮人の殺された死体があった。橋詰めの交番は無茶苦茶にこわされていて、6、7名の朝鮮人の死体が転がされていた。首と胴が離れていた。日本刀で切られたものなのだろう。」
2017/9/6

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その3) 葛飾区、北区の証言 「2日「戒厳令」がしかれると馬に乗った兵隊を先頭に水元の方から、手をしばられた多くの朝鮮人が〔中川〕土手を通って浦安の方へ連れて行かれる光景もありました。」大正12年記
2017/9/5

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その2) 板橋区、江戸川区、大田区の証言 「深川清澄庭園に避難中の事柄、2日目に立ち寄りし一在郷軍人の話によれば、小松川方面よりの途すがら鮮人十数人を殺傷してきたといいながら外被を開ければ、返り血を浴びて凄くそのときの無残な様子が思われた」
2017/9/4

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その1) 足立区、荒川区の証言 「2、3人の憲兵が、.....「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだらしい。朝鮮人に気をつけろ」「朝鮮人を見つけたら、すぐ青年団に知らせよ」 憲兵は交々(こもごも)命令口調で、朝鮮人や社会主義者が放火の下手人で、暴動を企てていると、一軒一軒丹念に布令していく・・・。」
2017/9/3

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月1日(その3) 江東区、品川区の証言 「亀戸天神公園で古森警察署長は石油箱の上に立って避難者や群がる人々を前に、危険な朝鮮人や社会主義者の不逞の輩は全部逮捕するからみんな協力するようにと演説した。」
2017/9/2

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月1日 足立区、荒川区、江戸川区、大田区、北区の証言 「〔1日〕夕暮れ近くなった頃、.....朝鮮人が復讐を企てて、諸方の井戸に毒薬を投げ入れたり、集団で強盗をはたらいたりしている、というような噂が伝ってきた。」
2017/9/1

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加藤直樹『九月、東京の路上で』による増補改定

【増補改定版】 大正12年(1923)9月11日~12日 中国人社会運動家王希天が軍隊に殺害される(王希天、70年の「行方不明」) ソ連の震災救援船「レーニン」号が横浜入港するも退去命じられる スペイン・バルセロナの駐屯地で反乱、軍事独裁政府樹立(~1930)
2016/9/7

【増補改定版】 大正12年(1923)9月8日~9日 労働運動社の一斉検束 習志野収容所で殺された朝鮮人 江口渙の見た虐殺(『車中の出来事』) 池袋にて(東京物理学校学生、李性求の経験)
2016/9/5

【増補改定版】 大正12年(1923)9月6日~7日 寄居警察分署での殺戮 関東戒厳司令部が「有りもせぬことを言触らすと処罰されます」というビラ10万枚を配布 「下野新聞」の見出し(「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」) 流言浮説取締令
2016/9/4

【増補改定版】 大正12年(1923)9月4日(その2)~5日 埼玉県熊谷市での朝鮮人虐殺 朝鮮人の習志野移送決定 「9月1日夜から4日まで横浜市内は血みどろの混乱状態」(「読売新聞」) 「海外宣伝は特に赤化日本人及び赤化鮮人が背後に暴行を煽動したる事実ありたることを宣伝するに努むること」 旧四ツ木橋 江東区旧羅漢寺付近 藤岡事件 「朝鮮人あまた殺され/その血百里の間に連なれり/われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」(萩原朔太郎)     
2016/9/3

【増補改定版】 大正12年(1923)9月4日(その1) 京成線・荒川鉄橋上での虐殺 「おん身らは誰を殺したと思ふ」(折口信夫が見た日本人の別の貌) 亀戸事件(亀戸警察署で、川合義虎・平沢計七ら10人の労働運動家、自警団4人、朝鮮人が殺害される)
2016/9/2

【増補改定版】 大正12年(1923)9月3日(その2) 永代橋付近(東京都江東区・中央区) 暖昧さに埋められているのは / 朴烈(25)、東京世田谷署に保護検束。翌日、金子文子(20)も / 内務省の警告書 / 戒厳令を東京府、神奈川県全域に適用
2015/9/30

【増補改定版】 大正12年(1923)9月3日(その1) 軍隊配備と自警団 警視庁は軌道修正を始めた / 上野公園〔東京都台東区〕 流されやすい人 / 東大島(東京都江東区・江戸川区) 中国人はなぜ殺されたのか(殺された中国人の数は300人以上と見られる)   
2015/9/7

【増補改定版】 大正12年(1923)9月2日(その3終) 夕方~夜 間違えられた日本人 「千田是也」を生んだ出来事 / 烏山の惨行 烏山神社の13本の椎の木
2015/9/5

【増補改定版】 大正12年(1923)9月2日(その2) 昼 神楽坂下[東京都新宿区] 神楽坂、白昼の凶行 午後 警視庁(東京都千代田区) 警察がデマを信じるとき 午後2時~夜 亀戸駅付近(東京都江東区) 騒擾の街
2015/9/3

【増補改定版】 大正12年(1923)9月2日(その1) 「不逞鮮人」来襲の流言拡大 未明の品川警察署前(東京都品川区)「朝鮮人を殺せ」 午前5時 荒川・旧四ツ木橋付近(東京都葛飾区・墨田区)「薪の山のように」
2015/9/2

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大正12年(1923)9月4日~5日 亀戸事件 朝鮮人暴動の背後で糸を引いている者がいるとの新しい流言
2010/9/25

大正12年(1923)9月3日 関東戒厳司令部(長官福田雅太郎)新設 軍隊5万が配置される 自警団による朝鮮人虐殺 朴烈・金子文子検束
2010/9/18

大正12年(1923)9月2日 「不逞鮮人」来襲の流言拡大 戒厳令「若シ之ニ応ゼザルモノアルトキハ、警告ヲ与エタル後、兵器ヲ用ウルコトヲ得」
2010/9/2

大正12年(1923)9月1日 関東大震災 対策責任者は元朝鮮総督府政務総監(水野錬太郎内相)と同警務局長(赤池警視総監)
2010/9/2




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