大正12年(1923)9月1日
〈1100の証言;青梅〉
森田宗一〔当時尋常小学校2年生。青梅市三田村二俣尾で被災〕
〔1日〕その日の夕方から夜にかけ、いろんなことが伝えられてきました。更に翌2日になると、不穏な情報と余震の不安が人々を包みました。〔略〕不穏な情報により自警団がつくられ、竹やりを持った青年が村の入口や橋のたもとにかまえる光景が、女子供には気味悪く感じられました。「横浜の朝鮮人が大挙して東京へのぼって来たそうだ。朝鮮人が東京市内で爆弾を投げ石油で放火している」。そんな噂が流れたのです。「朝鮮人と見たら呼びとめ、名をなのらないようなら、竹やりで刺し殺してよい」。そういうことも、言いふらされました。
〔略〕私どもの村の多摩川ぞいの滝振畑という小字(通称下通り)の人々は、”朝鮮人云々”ということには、みんな疑問を持ち、流言は信じ難いと思いました。それは日頃から温厚善良な人柄で近隣の人々に親しまれていたAさんは朝鮮人だったからです。日雇い労働をして真面目に働いていました。おかみさんは日本人で、夫婦とも近隣の子供たちからも親しまれる「いいおじさんおばさん」でした。
「Aさんのような人たちが、そんなことする筈がなかろ」。「Aさんが万一疑われるようなことがあったら、五人組の者みんなで守るんだ。そうしてやるべえ」。そう言い交し、Aさんが出歩かないでいいように心をくばり協力しました。Aさん家族はその近隣の人々の善意と保護を感謝し、のちのちまで「あの時は、ほんとに嬉しかったです」。そう語っていました。
(森田宗一『多摩の山河と人間教育』匠文社、1983年)
〈1100の証言;小平〉
袖山金作
地震の後には必ず火事が付き物。当然、関東大震災のときも東京は火災が発生して東京中が火の海と化して、9月1日の夜は小平からも東の空が真赤に見え炎がメラメラ燃え上がるのも見えるほどだった。当時の東京は殆んど木造平屋の燃えやすい建物であった為、忽ち東京中が火の海になったのである。次の日9月2日になってもまだ東の空が夕焼けのように真赤に見えたほどだった。
この時、誰が何処で言い出したのか大変なデマが飛んで「外国人が川の中へ毒を投げ入れたから水が飲めなくなった」とか、東京に火を点けたのは○○外国人だとか、とんでもないデマが飛び大騒ぎとなった。もうすぐその連中が小平に押し寄せて来るという騒ぎになり大変なパニックになってしまった。何とか食い止めなければということで回田新田の大人はみんな集まれということになり、各自竹槍、鎌、鍬等を手に茜屋橋に集まったという。山野、野中の人達は喜平橋に、上鈴木の人達は久衛門橋にということで、今日も明日も明後日も毎日待機をしていたそうである。
その後この件でどんな犠牲が出たのか出なかったのか分らない。
(『ふるさと昔ばなし第1号』-加藤直樹『九月、東京の路上で』ころから、2014年)"
〈1100の証言;日の出〉
橋本広一
更にその夜〔1日夜〕は暴動が起きるといううわさ騒ぎで夕方から四方八方で半鐘が乱打され、父は竹槍を構え鉢巻きで家の警戒。老人と女、子供は近所揃って裏山へ避難し蚊帳を吊り、その中で一夜を明かしたのも忘れられません。
(「関東大震災を偲ぶ」日の出町史編さん委員会編『日の出町史・通史編下巻』日の出町、2006年)
〈1100の証言;場所不明〉
岡田全〔当時成蹊小学校5年生〕
9月1日の大地震にひきつづいて、あの〇人さわざ、大人の人はむろんの事、まだなにもしらない子供までいっしょになってわいわいさわいでいる。僕等の方でも夜警と言って代りばんつ(ママ)に、夜ねむらずに番をしました。そして人が来るといたずらに「誰だ」等といっていました。
〔略〕3日頃に2人〇〇人がつかまりました。せいけつやが書いた目じるしでは〇人が井戸にどくをいれるのだ。ようじんせよなんてかきつけなどが来た事もありました。又子供等がけしてしまって後から僕等はここですかなどと言われた事もありました。
(「〇〇人さわざ」成蹊小学校編『大震大火おもひでの記』成蹊小学校、1924年)
小長谷透〔当時第一高等学校生徒〕
〔1日夜、乃木神社で〕一団の避難民が通る〔略〕本所深川全滅、神田全滅、銀座全滅〔略〕。不逞の徒の暴行が伝えられたのもこの時である。社会主義者の陰謀を事実として伝えられたのもこの時である。流言は流言を生み、蜚語は針小棒大に伝わった。あるいは不逞の徒宮城を攻撃せりといい、あの砲声はその音なりと談(かた)り、あるいは不平の一団玉川方面より青山渋谷に侵入せりといい、あるいは市の大部分は暴徒により占領せられたりという。
(第一高等学校国語漢文科編『大震の日』六合館、1925年)
佐治秀太〔当時第一高等学校生徒。新宿で被災〕
2日の夕であった、「放火の恐れあり」「井戸に毒薬を投入す各自注意されたし」等、鮮人に対する警戒のビラが各巡査派出所に張り出された。人々は武器を取った。「鮮人が捕まった」「昨夜鮮人が2台の自動車に分乗して中野を襲わんとし軍隊によって射殺された」等あらゆる鮮人に対する流言が行われた。そして人々は極度の恐怖に戦いたのである。ああ呪われたる日よ。地震は天譴である。火事は天災である。しかし鮮人暴動の流言に血迷いあらゆる残虐を敢てするに至ったとは何たる呪われた日であろう〔略〕。大国民の恥であり絶代の痛恨事であらねばならない。
(「痛恨事」第一高等学校国語漢文科編『大震の日』六合館、1924年)
柳川昇〔経営学者。当時第一高等学校生徒〕
流言蜚語の伝わることの早いのには一驚した。深川の兄が水戸から帰っての話に、1日の午後にはもう朝鮮人という語が伝わっていたという。
(第一高等学校国語漢文科編『大震の日』六合館、1924年)
吉田はる〔当時赤坂区赤坂高等小学校2年生〕
〔1日夜〕突然バクバタという人の足音が聞こえたと思うと、又すぐ闇の中へ消えてしまった、と同時に「体操場を気をつけ」という兵隊さんの悲痛な叫声が聞こえる「ああ皆さん、それ玉がくるかもしれませんから早く中へ入って下さい」という早口に驚かされて我先にと室内にかけ入った、同時にズドンという銃の音が聞こえたかと思うと何者かバタリと倒れた様であった。室内の人はあちらに5人、こちらに3人という様に固まって息をこらしている「ああいよいよ〇〇人が攻めて来たのだ」そう考えた時、私共は闇の中に青ざめてた顔を見合わせてただため息をつくより仕方がなかった。
(「露宿の一夜」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・高等科の巻』培風館、1924年)
「9月1日」の項おわり
「9月2日」につづく
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