2018年9月12日水曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その12)〈1100の証言;港区/芝・赤羽橘・一之橋〉「その夜、品川方面より管内に来れる某は、鮮人と誤解せられ、所謂自警団員の包囲する所となり、危急に陥りしかば、署員これを、保護せんとしたるに、却って団員の激怒を買い、重傷を負うに至り、.....」(芝愛宕警察署)

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その11)「「朝鮮人反乱」のデマを発案した張本人が誰であるかをわたしは知らないが、それを流布するのに官憲も手伝ったことは事実です。「朝鮮人300人の一隊が機関銃を携えて代々木の原を進撃中」とか「朝鮮人の婦女子が毒物を井戸に投入しつつあり」とかいった類のビラが麗々しく、いたる所の交番に張られているのをわたしは見ました。」
からつづく

大正12年(1923)9月1日

〈1100の証言;港区/芝・赤羽橘・一之橋〉
小金義照〔政治家〕
〔1日夕方、芝公園近くの岩崎勲邸で〕 「あなたは剣道の達人だそうだが、いま朝鮮人が押しかけて来るというので、みんなこわがっている。ここに日本刀があるから、これで防いでくれ」と言う。「朝鮮人が来るなんて・・・どうしたんです」 「いや、横浜から朝鮮人が大挙して来るから、気を付けろという伝言があったんだ」と、いかにも不安そうだった。そんなことで、義照はとうとう帰されずに泊められた。そして、その晩は日本刀を抱いて寝たのだった。
ところが翌日もその次の日もそんな気配はない。そこで、「もう大丈夫のようですね」と言って帰ろうとすると、そこの小学校か中学校ぐらいの子が、護照に抱きついて放さない。こわがっているのだ。「大丈夫だよ。朝鮮人はもう来ないよ」となだめても、なかなか放そうとしないので、その晩も泊めてもらって、義照は3日目か4日目に本郷の下宿へ帰ったのだった。
(西山又二『小金義照伝』逓信研究会、1971年)

野口茂〔芝古川橋付近で被災〕
〔1日〕夕方近くなって一人の自転車に乗った若い男が、ただ今朝鮮人が暴動を起し、300〜400人ばかり、こちら方面にやって来ると言って通り過ぎた。あとで考えると、こちらは非常に沢山の人間がいるので朝鮮人など恐れる事はないのであるが、心が動揺しているので私は30キロの小男なので小さい赤ん坊を、妻は上の子を背負い、麻布十番の漬物と塩を商っている家に嫁いでいる姉の家へ急いだ。途中には竹やりを持った人々が、何処へ行くと聞くので、親戚の家へ行く所だと答えて姉の家へ行った。
(震災記念日に集まる会編『関東大震災体験記』震災記念日に集まる会、1972年)

芝愛宕警察署
9月1日、午後6時頃鮮人襲来の流言初めて管内に伝わりしが、同時に警視庁の命により、制・私服の警戒隊員を挙げて、芝園橋・芝公園その他の要所を警戒せしが、遂に事無きを以て、同7時これを解除せり。しかるに、翌日に及びては、蜚語益々盛にして、放火・爆弾・毒薬等の説、紛々として起るや、芝公園の避難者を始め、戎・兇器を携えて自ら衛る者多く、遂に、乱れて暴行に渉るものあり、その夜、品川方面より管内に来れる某は、鮮人と誤解せられ、所謂自警団員の包囲する所となり、危急に陥りしかば、署員これを、保護せんとしたるに、却って団員の激怒を買い、重傷を負うに至り、遂に武器の使用によりて、漸くその目的を達せるが如き事変をも生ぜしかば、その取締を厳にするの必要を見たり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年) 

〈1100の証言;港区/高輪・泉南寺〉
飯島正〔映画評論家、詩人〕
〔1日、高輪で〕ぼくは家に飛んで帰った。家でも、興奮が高まっていた。それに輪をかけて、ぼくたちを恐怖におとしいれたのは、川崎方面から朝鮮人の暴徒が隊をなして押しよせて来るという、口づたえの噂だった。ずっとあとになって、それが根も葉もないデマだと分かったが、当日は正式に町会からも通達があって、品川駅前山手寄りの竹田宮(だったか)の邸内に避難しろということだった。近所の人たちに、坂家、吉田家、みんな一緒になって、かなり遠い竹田宮邸へ、一同いそいで出かけた。だだっぴろい竹田宮前庭も、たちまち大群衆で一杯になった。流言蜚語のおそろしさを、ぼくは生まれてはじめて経験したわけである。
(飯島正『ぼくの明治・大正・昭和』青蛙房、1991年)

後藤武夫〔実業家、帝国興信所(現・帝国データバンク)創業者〕
〔1日夜、泉岳寺山門前忠臣亭で〕朝鮮人騒ぎはその晩12時頃からであったが、泉岳寺境内は一面の避難民で填められ、不逞鮮人が今にも襲来するというので、境内はさながら鼎(かなゑ)の沸き立つようであった。恐怖の上に恐怖を重ねて、皆極度の神経過敏となっていた。避難民の騒ぎはさることながら、青年団員であり在郷軍人たるものが、恐怖の念に駆られて右往左往するさまは、余りに無訓練にも不甲斐ないように感ぜられてならなかった。門前門内数百の避難者はいずれも恐怖して墓地の奥深く逃げ込んだ者もあったが、私の家族は依然として門前忠臣亭の前に落着いていたのであった。
〔略〕流言蜚語は東西南北に伝おって鮮人騒ぎはいやが上にも波紋が大きくなった。やれ彼等が火をつけたの、井戸に毒を投じたのというような根もない事が本気に伝えられては、善良な鮮人こそよい迷惑である。
〔略〕私はあらん限りの大声を発して、鮮人襲来の全然無根なる事を怒鳴り回って、みだりに流言虚説に惑わされ、軽挙妄動すべきでないことを戒めたのであった。果然朝鮮人暴動事件は全然虚報であった。しかも没常識な粗忽連中がこの渦中に投じて、軽挙妄動した朝鮮人虐殺事件が、ややもすれば国際問題化せんとしたことは、真に日本国民の一大汚辱であり、一大不名誉であった。
(後藤武夫『後藤武夫伝』日本魂社、1928年)

〈1100の証言;目黒区〉
堀貞之助〔当時18織。目黒区本町3-6-9(現・小山台高校付近)で被災〕
〔1日〕夕方になって、横浜の刑務所の囚人が脱走し朝鮮人と合流して暴動を起こし、多摩川の六郷橋を渡って東京方面に向かって来るから、早く安全地帯に避難しろ、と誰かがオートバイで宣伝して回りました。そして、星薬科大学前の旧中原街道の火の見やぐらで早鐘をうち、その付近の人に知らせたのです。近所の人たちは日暮れまでには世田谷の軍隊の兵営に避難しました。
(「小山台で震災に会う」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

つづく








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