東京 北の丸公園 2012-08-04
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(27)
「第1章 ショック博士の拷問実験室」(その7)
これがヘップの恐れたことだった
これはまさにヘップが恐れたこと - すなわち彼が考案した感覚遮断のための方法が、「恐ろしい尋問技術」に転用されることにほかならない。
だがクバーク方式の核をなすのはキャメロンの研究であり、「時間的・空間的イメージ」を阻害するために彼が考案した方法である。
マニュアルには、アラン記念研究所の地下室で患者たちをデパターニングするために磨き上げられた方法のうちのいくつかが紹介されている。「重要なのは、拘束者の時間的感覚を阻害するように尋問セッションを計画することである。(中略)被尋問者のなかには持続的な時間の操作、すなわち時計を進めたり遅らせたり、食事の時間をずらしたり(食事の間隔を一〇分にしたり一〇時間にしたり)することによって退行が起きる者もいる。夜と昼の感覚もおかしくなる」
退行現象、「精神的ショック」状態、「仮死状態」、「情報源がより暗示にかかりやすくなり、命令に従う確率が格段に上がる」
だが、どんな個別のテクニックよりこのマニュアルの著者たちの心をとらえたのは、被験者の退行現象へのキャメロンのこだわりだった。自分が誰であり、時間的・空間的に自分がどこにいるのかという被験者の感覚を奪い取ることによって、成人である彼らの精神はまるで子どものように白紙状態になり、暗示を受けやすくなるという考え方だ。
筆者たちはくり返しこのテーマに戻る。
「尋問の障害を突き崩すために用いられる技術 - 単純な隔離から催眠や薬物による昏睡に至るあらゆる技術は、基本的には退行プロセスを促進するための方法である。被尋問者が徐々に成人から幼児のような状態に移行するにつれて、学習され、構造化された人格的特徴は剥げ落ちていく」。
こうして拘束された者は「精神的ショック」状態、あるいは「仮死状態」となる。
これは「情報源がより暗示にかかりやすくなり、命令に従う確率が格段に上がる」、尋問者にとってもっとも”おいしい状況”なのだ。
「過去三〇〇年以上なかった本格的な大革命」、「CIAによる二段階の心理的拷問法の科学的基礎を築くもの」
拷問技術の進化についての研究者で『拷問の問題 - 冷戦からテロとの戦いに至るCIAによる尋問』の著書があるウィスコンシン大学の歴史学者アルフレッド・W・マッコイは、感覚遮断によってショック状態を作り出し、その後過負荷入力を行なうというこのクバーク方式の尋問は、「残忍な苦痛の科学において過去三〇〇年以上なかった本格的な大革命」だと書く。
マッコイによれば、この革命は、一九五〇年代のマギル大学での実験なしには起こりえなかったという。「ヘップ博士の画期的な実験を土台にして行なわれたキャメロン博士の実験は、その異様なまでに行き過ぎた行為を除外すれば、CIAによる二段階の心理的拷問法の科学的基礎を築くものだった」
一定の明確なパターン
クバーク方式が取り入れられたところには、すべてにある一定の明確なパターンが存在する。
その目的はいずれの場合も拘束者にショックを与え、その度合いを深めて長続きさせることにあった。
共通するのは、できるだけ衝撃と混乱を与えるため、容疑者はマニュアルの指示どおり深夜や早朝の家宅捜査で拘束されること、そして拘束後すぐに頭巾をかぶせるか目隠しをし、服を脱がせて殴打してから、なんらかの形で感覚遮断を行なうことだ。
そしてグアテマラからホンジュラス、ベトナムからイラン、フィリピンからチリに至るすべての場所で電気ショックが用いられた。
もちろん、そのすべてがキャメロンと(MKウルトラ)プロジェクトの影響というわけではない。
拷問には常に場当たり的な部分があり、習得された技術と、罰則のない状況で必ず顔を目す人間の残忍な本能とがより合わさっている。
五〇年代半ばには、フランス軍が電気ショックをアルジェリア民族解放戦線のゲリラに対して頻繁に行ない、しばしば精神科医が手助けしていた。この時期、フランスの軍指導者はノースカロライナ州フォートブラツグにある米陸軍基地内の「対反乱作戦」学校でセミナーを行ない、アルジェリア方式の訓練を実施していた。
キャメロンの方法の採用、試行、適用
だが一方で、単に苦痛を与えるだけでなく構造化された人格を消去するという特定の目的のために電気ショックをくり返し使用するというキャメロンの方式が、CIAの日を引いたことも明らかだ。
一九六六年、CIAは三人の精神科医に、キャメロンが常用したページ=ラッセル法の装置を持たせて南ベトナムのサイゴンに派遣。この装置は現地で盛んに用いられ、死亡した拘束者も何人かいたほどだった。
マッコイによれば、「事実上、彼らはユーイン・キャメロンがマギル大学で開発した「デパターニング」の技術が本当に人間行動を変えられるかどうかを実地に試していた」のである。
アメリカの情報機関当局者にとって、こうした実地体験の機会はめったになかった。
七〇年代以降、アメリカの捜査官たちは直接尋問を行なわずに、もっぱら訓練や指導にあたるようになっていた。七〇~八〇年代に中米諸国で拷問を受けた人々の証言には、英語を話す正体不明の男たちが独房に出入りしては質問したり、助言したりしていたという言及が数多く見られる。
一九八九年にグアテマラで誘拐され、拘束されたアメリカ人修道女ディアナ・オーティズの証言によれば、彼女をレイプしタバコで火傷させた男たちはアメリカ耽りの強いスペイン語を話す男を「ボス」と呼び、彼の言うことに従っていたという。
またCIAのグアテマラ人職員に夫を拷問され、殺害されたアメリカ人弁護士ジェニファー・ハーベリーの重要な著書『真実、拷問、アメリカ方式』にも、こうした事例が数多く紹介されている。
歴代の米政府から認可を得ていたにもかかわらず、これらの「汚い戦争」〔中南米の軍事政権が反政府活動家に対して行なった組織的な弾圧行為〕におけるアメリカの関与は秘密にしておく必要があった。
理由は明らかだ。拷問は身体的なものであれ心理的なものであれ、「あらゆる種類の拷問や残虐な行為」を全面的に禁止するジュネーブ条約に明白に違反するし、拘束者に対する「残虐な行為」と「弾圧」を禁止するアメリカ陸軍の統一軍事司法法典そのものにも違反するからだ。
この「クバーク・マニュアル」の二ページ目は、ここに紹介する技術は「のちのち訴訟の対象となる重大な危険」をはらんでいるとの注意書きがあり、一九八三年版はより単刀直入に次のように述べている。「尋問の補助手段として物理的な力や心理的拷問を使用すること、脅し、侮辱、不快で非人道的な処遇などは国内外の法律で禁止されている」
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