東京 北の丸公園 2012-07-27
*安和2年(969)3月 安和の変(2)
■安和の変の本質
安和の変は、藤原摂関家と天皇の親族である源氏の権力闘争であり、藤原氏の他氏排斥の一種である。
承和の変や応天門の変には、平安初期以来天皇が重用した中下級貴族出身で能力や学問で取り立てられた官人(文人派ともよばれる)と、上級貴族との争いという性格もあったが、延喜元年(901)の菅原道真の失脚によって、その争いには終止符が打たれた。
安和の変は、上級貴族の中での、天皇の血統をひく賜姓源氏と藤原氏の抗争という性格があった。
■何故起きたか?
源高明:
延喜14年(914)、醍醐天皇皇子として生まれる。母は更衣源周子(右大弁源唱の娘)。
母の身分が低かったため(村上天皇の母は関白太政大臣基経の娘穏子)、延喜20年(920)、7歳の時に他の皇子皇女6人と共に源姓を与えられて臣籍に下り、貴族官人の道を歩むことになった。同じ醍醐天皇皇子で朱雀天皇に次いだ村上天皇の時代に、右大臣から左大臣に昇った。
村上天皇の信任厚く、才能もあり(『西宮記(さいきゆうき)』の筆者である)、昇進早く、実頼につぐ朝廷第二位の地位にあったことになる。
村上天皇の皇太子は村上天皇と中宮藤原安子(あんし、師輔娘)の間に生まれた長男憲平親王(後の冷泉天皇)であったが、源高明は村上天皇と中宮安子の次男である為平親王にその娘を嫁がせていた。
高明の正室は藤原師輔の娘で、彼女が亡くなると、師輔の別の娘(愛宮)を正室にしており、藤原師輔とは関係は探かった。
しかし、憲平親王が冷泉天皇として即位後しばらくして有力な後援者師輔が没した。
冷泉天皇は清涼殿に付属する小屋の屋根に登って歌うような奇行のみられる人で、まだ皇子も生まれていなかったため、即位した年に皇太子を決めることになった。
兄弟順では、同母弟の為平親王が立太子されるのが順当であるが、為平親王の妃が源高明の娘であり、為平親王が天皇になると、源高明が外戚になることになるため、師輔の息子たち伊尹・兼通・兼家は不安になった。結局、皇太子には為平親王ではなく、冷泉のさらに弟である守平親王(もりひら、後の円融天皇)が立てられた。
そして、この年さらに追い打ちをかけるように安和の変が起こり、源高明は失脚することになった。
源高明は左大臣で、政治的には太政官のトップの地位にいた。また、高明は摂関期の三大儀式書のひとっである『西宮記』の著者であり、政務にも明るかった。村上天皇には兄弟である醍醐源氏を取り立てようとする姿勢があったという。
この時期の源氏にはまだ政治的権力があっため、藤原摂関家側はどうしても高明から政治上の実権を奪う必要があった。
この当時、源氏は単なる飾りではなく、政治的実権を有していたことは、この後、高明の異母弟源兼明が、円融天皇の天禄2年(971)に左大臣になった後、6年後の貞元2年(977)4月に政治的実権のない親王に戻されていることからもわかる。
この後にも源氏の左大臣として源雅信などがいるが、彼らは天皇の皇子ではなく、藤原摂関家を脅かすほど政治的実権はない。
密告の内容や源高明の罪状などの具体的なことは不詳。
『源平盛衰記』などには、源満仲も元は橘繁延らの一味に加わっていて、為平親王を東国に迎えて乱を起こし、親王を帝位につけようと相談を重ねるうちに、満仲はかつて繁延と相撲を取って負けた遺恨があるので仲間を裏切って密告したなどと書いてあるが、信用できない。
ただ、主謀者の1人とされた源連は、嵯峨源氏で、叔母が高明の母、彼の妹は高明に嫁しているという二重の縁があり、この点からもこの密告が初めから高明を目指していることが察せられる。
また、僧の蓮茂が処罰され、東宮で読経して守護する役目の御読経僧たちも、事件発生とともに退出を命ぜられており、御読経僧のなかには東宮守平親王に害を与えようとする者がいるのではないかとの疑いが持たれたことが推測され、東宮の地位を巡って争いの渦に巻きこまれた為平親王も事件の内容に名が出て来たことと思われる。
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