東京 北の丸公園
*1756年(宝暦6)
この年
・飢饉続く。
宝暦の大飢饉、東北大冷害で米価高騰(宝暦5年6月中旬~宝暦6年3月)
宝暦5年夏は、6月上旬~中旬(新暦7月上旬~中旬)、九州各地で大雨による洪水が発生したが、東北各地では長雨のため土用(6月12日~29日頃:新暦7月20日~8月6日)になってもまだ肌寒さを感じるほど。
奥州南部領盛岡藩(岩手県)では、3月、冷気が去らず雨が降り続き、秋を思わせる気候となり、秋になって現われる初茸(はつたけ)が出てくる。
田植を始める頃、百姓は田に入るにも袷(あわせ)や綿入れを着なければならなかった。
6月1日~7月2日(新暦7月9日~8月9日)は夏らしい気候だったが、7月3日(新暦8月10日)には朝から北風が吹いて小雨模様となり肌寒く、7月9日~16日(新暦8月16日~23日)の間も雨が続いて袷(あわせ)の着物を着るほど寒く、夏を通り過ごし秋になったようだった。
ついに8月10日(新暦9月15日)と9月27日(新暦10月2日)、田畑は大霜に閉じこめられ霜枯れて稲作は皆無となる。
その他の東北各地でも、八戸藩領(青森県東部)も同じ状況で異常気象に苦しむ。津軽藩領(青森県西部)では、7月13日と17日(新暦8月20日と24日)に積雪1mに及ぶ降雪あり大凶作。仙台藩領(宮城県)も冷害で大凶作。出羽国(秋田、山形県)も大凶作となる。
宝暦5年冬から翌宝暦6年にかけて東北各地で米価が高騰し、正月に白米1升77文だったのが翌2月には102文と3割も値上り。
盛岡藩では前年(宝暦4年)が大豊作だったため江戸で販売をしたので、この年は藩内の貯蔵米は払底していた。
そこへ大凶作。城下の永祥院と円光寺にお救い小屋をつくり、飢えた人びとの救済に乗り出したが、それでも毎日50人が餓死か凍死し、翌宝暦6年の幕府への報告書によると、餓死者4万9,594人、空き家7,043軒の惨状。
仙台藩でも3万人の餓死者が出たと記録されている。
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・越前、勝山藩領2万2,777石の農民人口。
百姓と水呑の家数は2,712軒(うち高持1,201、水呑1,511)。人数1万2,037人、牛馬785匹。寺庵・山伏6軒・6人、乞食など計5軒・47人。外数を除いて計算すると高持・水呑の構成比は44対56で大体半々、高持の平均持高は18石9斗6升5合だが水呑を含めると8石3斗9升6合、1軒当たり家族数は4.4人、牛馬0.3匹。同年の大野藩領4万石の家数は武士を除いて4815軒、人数2万3742人、牛馬1012匹、他に奉公や稼ぎに出ている人が348人と面谷銅山に住む43軒・226人。
この外数を除いて計算すると、1軒当たり平均持高8石3斗7合、家族数4.9人、牛馬数0.2匹となる。
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・肥後藩主細川重賢、薬園「蕃滋園」を開設。
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1月
・郡上一揆、駕籠訴人の帰村を探るため、正月早々から足軽たちが村々を検分する。
駕籠訴の報が伝わり、この月以降、700人程に減っていた立百姓が再び急増する。
郡上一揆(ぐじょういっき)
美濃国郡上藩(岐阜県郡上市)で起きた大規模一揆。
<これまでの経緯>
宝暦4年(1754年)2月、郡上藩主金森頼錦は、藩の財政難解消のため、年貢の取り方を、定免法から検見法に変えるべく、庄屋たちを呼び出しこれを命じる。
7月、農民たちは年貢制度に反対し、那留ヶ野(郡上市白鳥町)に集まり嘆願書をつくり、藩に差し出す。
8月、庄屋を中心にして、代表が、中桐村の南宮神社(郡上市八幡町初音)に集まり、傘連判状をつくって団結を固め、藩に検見取りの取りやめを願い出る。さらに何千人もの農民が藩の役所に押しかけ、「十六ヶ条の願書」を差し出すという強訴を決行。郡上藩の国家老3人は願いを聞き入れ、江戸の藩主に伝えることを約束した書状を農民たちに渡した。
しかし郡上藩は、財政再建の為には検見法しかないと考え、「検見法」は幕府から命令されているとの体裁をとるよう画策した。幕府からの通達役として勘定奉行の部下の役人、美濃笠松(現在の羽島郡笠松町) の美濃郡代代官、青木次郎九郎が任命される。
宝暦5年(1755年)7月、笠松代官所で青木次郎九郎より「検見法」の執行についての申渡しが庄屋たちに言い渡される。これは役職権限外のことであった。
庄屋が拒否を申し出ようとすると、足軽達によって打ち据えられそうになったため、庄屋はやむをえず「検見法」を受諾する書面に押印してしまった。さらに代官は1年前に渡した16ヶ条のお墨付きと3家老の免状を返すよう命令した。
8月、郡上藩に2名の飛脚役が派遣され、このお墨付きと免状を持ち帰ろうとする。しかしこの事は事前に村々に触れていたこともあり、飛脚は母野(郡上市美並町)で村人達に追いつかれ、免状は行方不明となる。免状がなくなった罪で、小野村半十郎、組頭弥兵衛、飛脚の孫兵衛・甚十郎は村預けとなる。さらに青木次郎九郎に反抗的であった橋詰村庄兵衛が捕らえられた。
また、笠松郡代からの命令書をもった庄屋代表と足軽が郡上へ向かっていることを知った村人たちは母野に陣取り、「検見法」を承諾しその命令書をたずさえた庄屋達が郡内に入るのを食い止めた。
そして再び村人の有志70人余りが那留ヶ野に集まり、傘連判状をつくって団結し、江戸にいる藩主金森頼錦に願い出ることを決めた。
同年9月、村人代表40名が郡上藩の江戸屋敷に行き、前の「十六ヶ条の願書」に加え、「十七ヶ条の願書」を出す。村人代表40名は監禁された。さらに郡上藩の農民への取締りが厳しくなり、数千人いた一揆運動参加者は500人まで減少してしまう。
このころ、一揆賛成派を「立百姓」「立者」、一揆反対派、裏切り者を「寝者」と呼ぶようになり、村人内での対立が起きる。
そこで立百姓は関(現関市)の新長谷寺付近に拠点を移した。
同年11月には代表5人(善右衛門、長助、喜四郎、定次郎、藤吉)が、江戸城大手門前で、駕籠で登城する老中酒井忠寄の行列に嘆願書をもって飛び込むという駕籠訴を決行する。
5人は取り調べを受けた後、宿預けとなる。
<今後の概略>
この年(宝暦6年)4月、郡上郡全体の115か村代表による傘連判状がつくられた。
同年8月、江戸の評定所や北町奉行所で、駕籠訴の取り調べが行われ、代表5人はお咎めの無いまま、12月に郡上に送り返され、庄屋預かりとなる。
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・モーツアルト父レオポルト(37)、アウクスブルクの謝肉祭のために作曲。「シンフォニア ニ長調 田舎の結婚式」「橇すべりの音楽 ヘ長調」
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1月3日
・元禄歌舞伎の立役者、初代沢村宗十郎(72)、没。
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1月16日
・イギリス・プロイセン、ウェストミンスター協定締結
英仏抗争の際にプロイセンが中立であることを約す。これが契機でフランスはロシア、オーストリアと同盟。
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