北の丸公園 2013-07-12
*1770年(明和7)
1月5日
・ヴェローナにて、モーツアルト(14)、アッカデミーア・フィラルモニカでイタリアで最初の演奏会
1月12日付「ガゼッタ・ディ・マントヴァ」(マントヴァの週間新聞)紙上に、1月9日付ヴェローナ発のモーツァルト関連記事が掲載。
1月5日金曜日にアカデミア・フィラルモニカのホールでまだ13歳にもならないモーツァルトがコンサートを開いた(本当は既に13歳、すぐ14歳)。
最初に自作の美しい序曲(シンフォニア)が演奏され、拍手喝采を受けた。
次に初見でチェンバロ協奏曲を見事に弾き、ついで彼にはまったく初めてのソナタを弾いた。
そのあと、4つの詩がモーツァルトに与えられ、彼はその場でアリアに作曲し、自ら歌ったが、最上の趣味のよさを持つものであった。
そして次、一つの主題と一つの終結部が与えられると、最上の音楽的ルールに従って、素晴らしい変奏を行なった。
次にボッケリーニのトリオを1曲素晴らしく演奏したあと、ある教授がヴァイオリンで一つのテーマを与えると、モーツァルトはそれをスコアに完成した。などなど。
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1月6日
・モーツアルト、この頃、「クラヴィーアのためのアレグロト長調」(K.72a)作曲。
翌日にかけて、ヴェローナでの彼のパトロンであるピエトロ・ルジアティが命じて、サヴェーリオ・ダッラ・ローザがモーツァルトの肖像画を描く。
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1月7日
・モーツアルト、カルメル会修道院付属サン・トンマーソ教会に行き、2台のオルガンを演奏。
8日、円形劇場などの名所を見物。
10日、父子、ヴェローナ発。午後5時、マントヴァ着。午後6時からオペラを観る。
12日、モーツアルト、フランチェスコ・エウジェーニョ・アルコ伯爵邸を訪問。
16日、アッカデーミア・フィラルモニカの定期演奏会で演奏。大成功。
19日の「マントヴァ新聞」には奇跡が起こったことが詳しく伝えられる。
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1月18日
・イギリス、フレデリック・ノースが首相就任。
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1月19日
・ニューヨーク、軍隊宿舎法に反対する植民地住民、イギリス軍と衝突。流血の惨事。
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1月19日
・モーツアルト父子、マントヴァ発。夕方、ボッツフォーロ着。主任司祭カルロ・サラゴッツィの家で即興演奏。
20日、父子、クレモーナに向かう。ヨハン・アドルフ・ハッセのオペラ「ティトスの慈悲」を観劇。
22日、クレモーナ発。
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1月23日
・モーツアルト父子、正午、ミラノ着。ロンバルディア総督カール・ヨーゼフ・フォン・フィルミアン伯爵の大歓迎を受ける。
格安の金額(1ヶ月18グルテン)でサン・マルコのアウグスチノ修道会修道院に宿泊。~3月15日。
26日、モーツアルト、フィルミアーン伯爵邸での大音楽会の為に、アリア「不幸なのはあなたではありません」(K.Anh.2(73A))(散失)作曲(ナンネルル宛手紙)。
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2月
この月
・モーツアルト、ミラノで2人のカストラートの為にイタリア・オペラ風の華やかなレチタティーヴォとアリア「故に問題は。天上を求めて ト長調」(K.73a (143))作曲。曲の終りに「何の価値もない」という句を追加(?)。
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・2月か3月、ミラノでメタスタージョ詞によるアリア「あまたの苦難に会いて」(K.73c (88))、アリア「この父の抱擁ゆえに」(断片)(K.73d)の初稿、レチタティーヴォとアリア「おお、大胆なアルバーチェよ。この父の抱擁ゆえに」(K.73d (79))、レチタティーヴォとアリア「哀れなる私。哀れ幼な子よ」(K.73e (77))作曲。
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2月2日
・モーツアルト、オペラ作家ニコラ・ピッチーニ(1728~1800)の新作オペラ「エジプトのシーザー」の練習に立会い、ピッチーニと知り合う。
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2月7日
・モーツアルト、ロンバルディア総督カール・ヨゼフ・フィルミアーン(ザルツブルクの前大司教レオポオルト・フィルミアーンの甥)伯爵邸に伺候、演奏し、トリーノ版「メスタージョ全集」9巻贈られる。
ここで、ジュヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニと知り合う。
12日、フィルミアーン伯爵邸でモーツァルトの演奏を聴くためにミラノに赴いたモデーナ大公フランチェスコ3世とその孫娘の臨座のもとに演奏会。
23日、モデーナ大公エルコール3世父娘のための音楽会。
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2月26日
・イタリアの作曲家ヴァイオリン奏者ジュゼッペ・タルティーニ(78)、バドバで没
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3月
この月
・中旬頃、モーツアルト、この年のクリスマスで上演されるオペラ「ポントの王ミトリダーテ」(K87)の作曲依頼を受ける。
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・イギリス、タウンゼンド関税の撤廃(茶を除く)。
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3月2日
・フランス、ルイ・ガブリエル・スーシェ、誕生。
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3月5日
・北米、ボストン虐殺事件。
ボストンのイギリス軍守備隊が増強されるなか、アメリカ人60人がイギリス兵に雪玉を投げ始めたところから乱闘。イギリス兵が発砲。アメリカ人3人即死、のち2人が没。イギリス兵指揮官は裁判ののち釈放。反英感情が一気に高まり、植民地側は宣伝戦勝利。
イギリス政府は茶税を除き、すべての新税を廃止するが、抗議は続行。
「愛国派」(抗議者)は、行動調整の為の「連絡委貞会」を結成。ボストンのサミュエル・アダムズは、既に独立を考える。
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3月8日
・(露暦2月26日)キリル・ラクスマン、ロシア科学アカデミー会員に推挙。化学実験室長。
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3月12日
・ミラノ、モーツアルト、フィルミアーン伯爵邸で音楽会(150人)。
フィルミアーン伯爵邸での大音楽会の為に、レチタティーヴォとアリア「私はなんと不幸なのだ/哀れな幼子よ」 (K.77(73e))とアリア「激しい息切れとときめきのうちに」(K.88(73c))を作曲。
伯爵はボローニャのパラヴィチーニ伯爵宛の推薦状を書く。
14日、フィルミアーン伯爵と会食、金の象嵌の煙草入れに20ジリアーティーの金貨を入れたものを贈られる。
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3月15日
・モーツアルト父子、ミラノ発。同日、ローディ着。
「弦楽四重奏曲第1番ト長調」(K.80(73f))(通称「ロディ」)作曲(意欲的にサンマルティーニ様式を模倣)。
ローディ → ピアチェンツァ → パルマ → モーデナ。
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3月24日
・モーツアルト父子、ボローニャ着。
24日~27日、「メヌエット変ホ長調」(K.122(73t))作曲。
この間、
パルマでは、名女流歌手ルクレーツィア・アグヤーリ(姉への手紙ではバスタルデッラ)に会う。
ボローニャではジャン・ルカ・パラヴィチーニ伯爵の歓迎を受け、ローマ枢機卿ラッザーロ・オピツィオ・パラヴィチーニ伯爵への推薦状を書いてくれる。
同日、ボローニャから姉へ手紙。ウィーンのメヌエットとイタリアのメヌエットの違い、パルマでバスタルデッラと知り合ったことを書く。
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3月25日
・モーツアルト、元帥パッラヴィッチーニ・チェントゥリオーニ伯爵邸に伺候。
26日、同伯爵邸で演奏会。7時半~11時半。150人の貴族招待、マルティーニ神父招待。
ボローニャにてジャンバチスタ・マルティーニ神父(1706~84)を2度訪問。対位法指導。
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3月29日
・モーツアルト父子、ボローニャ発。
30日夜、フィレンツェ着。
31日、父子とも風邪をひく。
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