2020年8月7日金曜日

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その11) 「大川署長起って説明して曰く 本員は其鮮人の反乱事件は何かの理由に依り発生した全く根もなき流言蜚語と断定します.....彼等迚同じ国民故之を保護するのは私の絶対的の責任であります 若し又不幸にして収容の彼等が蜂起するが如き事ありし場合には私断然命を賭して之を鎮圧すべく決して民衆に危害を及ぼす事なきを固く明言します.....」

 【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その10)「震火災で横浜では神奈川警察署だけが辛うじて焼け残ったが其の管内の混雑は悲絶を極め二日朝から伝へられた流言で自警団の不統一は言語に絶し日中は横濱倉庫や各商店の掠奪を恣にし、夜は通行の労働者等を惨殺し2,3,4,の三日間に50余名を惨殺し死体は鉄道線路並に其の付近に遺棄されてあった、殊に某会社の雑役夫80余名の如きは殆んど一夜に全滅するの惨状を呈した」

より続く

大正12年(1923)9月2日

【横浜証言集】4 鶴見地域 (橘樹郡) の朝鮮人虐殺証言

⑥渡辺歌郎(医師) 「鮮人を捕えて後方より打つやら蹴るやら」

人心次第に不安となり、随って鮮人を憎むこと甚だしく、見つけ次第に大勢にて蹴る殴るの残虐を演じ、現に本院のわきを大勢の若者が1人の鮮人を捕えて裏の警察へ連れて行くを見たが、後方より打つやら蹴るやら鮮人は頻りに何か哀訴するらしいが、元より言語は通ぜず、唯之を押し飛ばしたり棍棒で衝くやらなぐるやらの騒ぎ。余之を実見すれば、鮮人は既に右足の下腿に骨折しおりて、歩行不能なるを認めたり。〔・・・〕余り残酷な真似は止せと忠告せしも、鮮人等の反乱事件を盲信しおりて、一同殺気だって居る矢先とて、更に耳を貸さず。

その内本院前を鮮人の一団を警官が連行して警察へ行く約50人、聞けば皆暴行或は虐殺を防ぐがため警官が保護しつつ警察に連行とのこと。青年団が外科患者を連れてきた。山の向こうの豊岡の青年団が日本人を朝鮮人と間違えて頭を殴り負傷させた。提灯の灯りで頭部の打撲破開創を7~8鍼縫合する手術を始めたところ、半鐘と呼子と発砲と喚声が響き渡り、恐怖に包まれたが、とにかく手術を済ませた。すると本人は、とても恐ろしくて東京へは帰れない、子安でも入江川の橋際に2人の朝鮮人が切り殺されていて、恐ろしくて急いで鶴見に差しかかった際に後ろから棍棒で殴られた・・・と。翌朝〔三日〕昨夜の騒ぎのことを尋ねると、青年団が生麦から1人の朝鮮人を追いかけ、逃げ回った末に鶴見川に飛び込んで対岸の潮田に上陸して逃げた。呼子や発砲はそのための騒ぎだと。〔・・・〕

大川署長起って説明して曰く 本員は其鮮人の反乱事件は何かの理由に依り発生した全く根もなき流言蜚語と断定します 今や彼等は吾邦摂政の元に嬉々として只食を得んが為めに働き居り 其反乱等の如きたいした目謀等起すべき事絶対無い者と確信します 若し又有るとしても無資力の彼等が何事をか成し得べき 殊更帝都に近い此地方に斯る反乱等起したとて何か成らんや位は彼等迚(トテモ) 能く之を知り居る民族 確かに余は国際問題でも惹起せんが為の構作せしデマに疑いなしと堅く信じております 尚彼等を悉く裸体として所持品検査を施すも武器としては小刀一挺をも携えし者なく只内に二三剃刀を所持した者ありしも之は鮮人の習癖として髭の延びおるを嫌ふの結果暇さえあれば髭を刷りおるの民族 武器として認め難く殊に彼等は何故に斯く吾等を悪むかと哀願するのみにて署へ収容後最も厳重に行動に対し監視するに彼等は柔順猫の如く 一食稗の握飯二個宛を給与しおるをありがたく涙を以て感謝し居る姿を認むるの時実に可哀想の感を懐くのみならず確かに斯る反乱等事実無根なりと断定すると同時に彼等迚同じ国民故之を保護するのは私の絶対的の責任であります 若し又不幸にして収容の彼等が蜂起するが如き事ありし場合には私断然命を賭して之を鎮圧すべく決して民衆に危害を及ぼす事なきを固く明言します 又先程お言葉の中に一刻も早く県外へ放逐せよとの御希望でしたが県外とは何処を指さるるのですか 隣の県としての東京にせよ静岡にせよ又山梨にせよ何れも皆之れ日本国の内なるを以て本県にて厄介な者は他県でも厄介なるを、他府県へ送り込むことは警察としては到底成し得ざる事、と言ふて各自に自由に県外へ行くべく命じても一度警察の手を離れれば忽ち全部が虐殺されて仕舞います 夫等の理由に依り署は飽く迄も之を保護します 尚向後も日に増し収容人員も殖へましょうが仮令何人殖へたりとて署の方針は変りはありません 右の様な次第ですから町民の指導に立つ満場の議員諸君は根もなき流言に惑わされる事なき私の説明を信じ下さって民心の安定する様最善の御協力を衷心よりお願い致します 之を以て本員の説明を終りと致しますが本会が了りましたら是非一回来所せられて彼等の行動を御実見ください 百聞は一見に如かずて実見すれば皆さんが想像せらるる真価より数等下位の人種民族なるを発見し得らるる事と信じます 依って是非御来所ある様お待ちします。

是れで署長の説明は終りしも其後二三の質疑ありしも署長は皆能く要領を得て説明を以て之に応え議員一同は署長の言動に依り幾分か不安の観念を薄め随づ心情も梢明るき感じとなりし 會も間もなく閉会し議員連打揃ふて出署し鮮人の収容状況を視察せしに其数約三百人程度にして内に頭部に包帯せるもの手を頚より釣りし者足の骨が折れて副木せし者など相当の負傷者あり今や稗飯の握飯二個宛の給与に預かり嬉々として感謝し居る哀れな姿を眺むる時成程署長が言わるる如く反乱等目論むが如き民族ならずしてより数段劣等の民族彼等に何事が成し得べきやとの確信を得て心情きわめて晴朗となり誰が発せし流言が正に根もなきデマに相違なしとすれば何の縁由もない彼等鮮人をして身命に及ぶ危険に陥り不安の二夜を徹せし愁嘆は実に其愚かさを恥つべきなり、

案の如く三日の晩も異常なく過ぎ例の流言も段々と遠ざかり初めて安堵せしも初心静まって破壊された家を顧みれば家は傾き〔・・・〕

(渡辺著「感要漫録」〔当時のメモをもとに一九四五年ごろ書かれた回顧録〕横浜市資料室所蔵)


⑦佐久間権蔵(町会議員)「夜分巡邏のときは兇器を携えて、あやしきものと見れば勝手の行動に出るも己むを得ず」

九月二日 日曜 好晴

不逞鮮人の一団が此の天災に〔社会主義者が尻押しをなすと風評す〕乗じて、京浜の各所に放火せり、今晩より自衛の為め夜分巡邏のときは兇器を携えて、あやしきものと見れば勝手の行動に出るも己むを得ずと認められるという為め、町内壮丁は各自衛の器を携えて回る。終日終夜時々震動あり。即ち中動、少動あり。

九月三日 月曜 晴 午後降雨あり

一日の大震動以来 時々強微両端の振動ありて人身動揺止す その間に塊残木瓦等を取り片ずく 当町と潮田町とその外に散在の鮮人約二百余人ありて是等は、何れも親方ある集団にて至極温良のものなれば、不逞鮮人が東京、横浜他に於て放火又は狂暴を○ぐる輩あり等各自自衛の必要を益々認めければ 此夜はひきつづき消防伍、青年団、壮丁等が隊伍をなして終夜巡邏す。夜明けの頃迄、鮮人来たりとて警鐘を打ちければ、家族の者は避難の準備をなせれども、そうならずにすんだ。

鮮人の処分につき 午後、分署に予と平沢、中西重は大川署長に会見して云わく、当地工場に居る鮮人は温良なりと難も、何時内地人すなわち町の人々と衝突するやも難計、人々に頭中には 京浜にて鮮人の暴動が極度に脳を刺激しおれは、比の際は是非二百余人の鮮人は本部以外の東京方面に送り出したしと強要をして、署長は温良なる弱者〔鮮人〕を保護するは職責上当然にて、放逐せんとせば、川崎署と東京の警察に交渉を遂げざれは不可能と言う。当方は云わく 弱者の保護の為め、衝突の怖れある当地より退去させたしと、又当分署より警察力の充実せる、殊に東京府は既に戒厳令施行しあれば、通過の節危険の倶れなしと思う 鶴見町民の為鮮人のため是非放逐を実行をと強要せれかば 署長は遂に意を決して 鮮人の親方五人計り招きて諄々と鮮人工夫の当町を一時退散するの安全なる事を認める故へ退散を強要せしらば、親方等もしぶしぶ承知して千葉県の寒川へ連れゆかんと云う。町では一人につ六勺の米を支給する考なれば、中西より四斗半の玄米を署に渡す。折りから瀬田町の小野重行殿来りて種々相談す(小野は警察にて当分保護を加えては如何と云う) 小野の意見あるも警察の(現在の)力にては保護は十分でならざれば余等は是非送り出されたしと云ひしに、時すでに黄昏になりければ、夜分の護送は大いに危険なれば今晩は警サツの二階へ二百十人を封じおきて明日送り出しを決行せんとて散会す。(小野は憲政会の代議士である。)「欄外 鮮人が所所に放火すとか、瑳楽を井戸に投ずるとか、種々穏やかならざるの説流布して人心個々、各自夜を徹して自警せり。併し果して鮮人が如上の悪事をなすのか杏や的確の証なし。」

九月四日 火曜 好晴

朝人の退去を実行する件に付き本日再びツルミ館に署長(大川)と午後から町議の集合を開く。出席人は余と陰山、中山富五郎、池田久蔵、松永市蔵、渡辺歌郎、平沢権三郎、中池○○、平間廣〇、関口○次郎、峰岸○治郎、等にて 署長は朝人退去の件に付き打合せの為め県に出しとて不在故、会議は午後三時頃より始む。署長帰署して打合せの結果を述ていわく、朝人を退去さしむるは県の方にても不賛成なれば、昨日請願し戒厳令も必ず施行せしと信じ、人心の安定を得るとて望みがあると思う。又鮮人を当地に置くことが人心に危険を与えるということにて、戒厳令の兵士数少ないときは県に警察官の増派を求めることに、本日県の諒解を得てある事なれば、鮮人を当分署の二階に収容して十分巡査の監督をなさしむるれば、其れにて此の問題の解決をなされたしと大川署長 熱誠を込て陳述せり。平沢は監督に於いて不十分ならんかと述べたが、余は昨日も陳し如く好んで鮮人を退去せしむるに非ず、人心昂奮の際内地人との衝突を怖るる為の退去論なれども、署長が県と打合せの上全責任を以て分署に鮮人を収容して、人心の動揺を防ぐことは必ず実行すと云うなれば、其れ以上退去論を主張せず、右にて本間題は解決したりと陳ず。衆も警察に収容すということにて先ず安心して之に決す。次に昨日町長が同署長の同意を得て知事に戒厳を要求せしにそのままなれは今日町議より尚請求することを決して散会す。

午前九時より当家にて町内の人々へ味噌壱千貫目、大豆約弐捨石を一戸に付味噌五百目大豆五勺ずつ無料提供す。比の任に当る人は中山富五郎、横田○助、〇〇〇〇平、関口幸作外四名、~~~外数名にて くくり戸より門内に人数を数えて入れ、十時過ぎに渡し終えた。「欄外 ~~午後十二時戒厳令の公布あり。」

戒厳警備隊の来着と鶴見の状況

九月八日 土曜 晴 余は此夜町長との約にてツルミ館の集会に臨席す。町議員、消防小頭、自警団支部長、外に支部出張主任、署長も出席して、諸職人は明日頃修繕又は損傷の片付けに着手〔・・・〕、手間賃も平素より割り引くが、諸職人と協議するなどを決め、散会。〔・・・〕近来公設市場最も繁劇〔・・・〕当方にては小売は中止、すべて公設にて売ることとす。午前のツルミ館にての集会にも諸商店は皆公設に持ち寄りて現金うりにて商売することを申し合bす。〔・・・〕午後、平沢権次郎殿来たりて戒厳令の騎兵二個中隊当地に来着すという。余始め一同大安心せり。不逞鮮云々は内地の不逞人どもの口実にて、不逞内地人の取り締まり大いに必要なれば一同安心の至りなり。二個中隊は約百五六十人なり。

九月九日 日曜 好暗

「欄外 戒厳令施行で警備隊の三十六連隊(福井県鯖江の連隊)第三大隊の歩兵二個中隊午後来着。佐久間家が大隊本部で、歩哨は鶴見神社入口と鶴見生麦新旧国道交叉点と、たぎねほか数か所。」 ツルミ館に約七十人寄宿、当家の本部は大隊長歩少佐田英彦夫殿と外将校一人医軍人下士五人兵六人なり。糧食は原料は軍隊の提供、当方にて料理す。右の状況にて人心大いに安堵した。自警団の巡邏は夜分は依然今まで通り警戒す。〔・・・〕日内に明治製糖より砂糖若干、味の素よりも小麦粉若干を各町村へ提供すると云う。

九月十日には、朝から雑役に兵隊も住民も多忙。しかし不安の念はおいおい減少し、付近のもの一同も安心。十二日に一か所の歩哨が廃止されると、町内の有志が心配し、佐久間は田実少佐を訪ねて復旧を陳情し、ロシア船つまりレーニン号の入港で警戒の必要があり一時的に歩哨が撤廃されたので、すぐに復活すると確かめた。

(「佐久間権蔵日記」横浜開港資料館編)

⑨吉村藤舟(角筈新町の下宿で被災) 「鮮人をひっとらへて、皆殺しにしろ」

〔二日夜、自警団の若い男〕「あちらの騒ぎはどうです。少しはやって居ますか

〔横浜からの避難〕「まだそうまではない様です。が、生麦だけは。鮮人が6~7人寄って女を強姦した揚句、それを火の中に入れたとか云って、大騒をして居ましたよ。鮮人をひっとらへて、皆殺しにしろ〔・・・〕大変な意気込みで以って張り込んで居ました」

「さうだらうね。奴等は日本人を仇の片破れ位に考へて居るのだから、子供でも見れば火の中へ放り込んで行く相だよ」

(吉村著「幻滅 関東震災記」泰山書房仮事務所、一九二三年)


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