建仁2(1202)年
5月2日
・頼家、兄弟相論の訴訟法を制定(「吾妻鏡」同日条)。
5月2日
・出車を院の御所に献じる。御幸の供奉、所労の由披露して不参。(『明月記』)
5月3日
・良経の若君、春日参詣御供すべき由、病を申し不参。(『明月記』)
5月4日
・京都群盗横行するとの『明月記』記事
「四日。天陰ル。雨灑(そそ)ギタルモ止ム。近日群盗競ヒ起ル。毎夜、人ヲ害スト云々。院ノ女房外居シ、鳥羽路ニ於テ、盗ノタメニ奪ハル。或ハ云フ、卿三位ノ縁類卜云々。此ノ如キノ悪事、強(あなが)チニ其ノ沙汰無シ。只遊覧ノ外、他無シ。近日頻リニ神泉苑ニ幸シ、其ノ中ニテ彘猟(ていれふ)ヲ致サルルノ間、猪ヲ生ケ取ルナリ。仍チ池苑ヲ掘リ、多クノ蛇ヲ食フ。年年荒池、偏へニ蛇ノ棲ナリ。今此ノ如シ。神竜ノ心如何。尤モ恐ルべキ老カ。俗ニ呼ビテ云フ、此ノ事ニ依リテ、炎旱卜云々」(「明月記」)
5月5日
・昨今、心神頗るよろし。よって髪をくしけずり沐浴。(『明月記』)
5月7日
・嵯峨に行く。顔に雑熱あり、よって蛭を飼う。(『明月記』)
5月8日
・嵯峨を出て冷泉に帰る。農夫等雨を見て皆耕作し、大いによろこぶ。(『明月記』)
5月10日
・所労末だ快からざるにより出仕せず。新日吉小五月会に参仕せず。(『明月記』)
5月11日
・鳥羽殿に参ず。御船に乗り、城南寺におわしますの間に退下、三位中将の許に参ず。(『明月記』)
5月12日
・鳥羽殿に参ず。家長、和歌を持ち来る。題影供なり。院仰せていう、良経に御教書を献ずる人なし、定家に付け進むべしと。家長又私に同じく、俊成に申すべきの由を示す。退去し、良経の許に参ず。慈円来訪されている。又俊成に家長の言を伝えて、書を以て家長の許に示す。(『明月記』)
5月13日
・良経、姫君(昇子内親王)の御目の煩いによりて八条院日吉社参詣に供奉。姫宮、兼実参籠。(『明月記』)
5月14日
・定家、内裏最勝講に参仕、出居を勤める。
5月15日
・鳥羽殿に参ず。九条に帰る。(『明月記』)
5月16日
・今夜、月蝕の疑いあり。但し僻言と。景勝講に参ず。終り退去し、冷泉に帰る。
日入るの程に九条に行き、これより鳥羽に向かう。
月出づるの後、船にて春日に参ず。良経の若君参じ給う。御供すべきの由、催しあり、申の時奈良に参会すべきの由申すなり。
「今夜、宇治川ノ辺リニ在り。船ヲ留メテ一寝ス」(『明月記』)
5月17日
・定家、良経若君(道家)の春日社参詣に供奉。
未明以後、綱手を引かしめ木津川を上る。泉木津に於て騎馬し、故僧都の亭宅に入る。浄衣を着し、先ず御社に参じて奉幣す。還り入るの間、良経の若君、竹林院法眼房に入りおわしますと。即ち狩衣を着して参ず。秉燭以前に、姫君同車、社に参ぜしめ給う。鳥居の下に於て下らしめ給う。予、以経只二人御供す。予御幣を取る。若君奉幣。興福寺先ず金堂にて説経。ついで南円堂・東大寺。ここより宿舎に帰る。尼公に謁す。亥の時許りに此所を出て、木津に行き船に乗り、終夜木津川を下る。(『明月記』)
5月18日
・船中にて夜が明け、巳の時、鳥羽に着く。今日の歌合延引すと聞く。なお参上す。良経・慈円参会。定家先ず退出す。川原に於て、春日詣での若君の帰路に逢い、御供して法性寺に参ず。(『明月記』)
5月19日
・鳥羽殿に参ず。夜前、女院・一品宮、西の殿におわします。ひとえに精進屋潔斎の如し。熊野に御使を立てられる。夜に入りて退出。(『明月記』)
5月20日
「御所の御鞠なり。」回数は220回、520回。(「吾妻鏡」同日条)。
5月20日
・向殿に参ず。終日御前にあり。(『明月記』)
5月21日
・鳥羽殿に参ず。向殿に参じ、夜退下す。(『明月記』)
5月22日
・良経の許に参ず。御供して法性寺に参ず。女院密々御幸。如法経埋めらる日なり。奉礼の後、少将殿と相共に騎馬して帰る。明晩、若君進発し給う。御供に参ずべしと。よって今日は墓所に入らず。(『明月記』)
5月23日
・甚雨の夜中に、僕従・牛童を尋ね求む。病と称して来らず。毎時雨に煩う。頻りに召しに遣わすの間、天すでに明く。若君進発し給うの由を聞く。よって所労あるの由、兼時の許に示す。
午終、鳥羽殿に参ず。院は、早く城南寺におわします。水駅を退出し、良経の許に参じ、深更に退出。(『明月記』)
5月24日
・巳の時、鳥羽殿に参ず。摂政基通参ず。釣殿を出でおわしまし、城南寺に御幸。退出す。夕、良経の許に参じ、深更退下。(『明月記』)
5月25日
・定家、子為家(5)の「おこり(瘧)」が重く急ぎ冷泉に帰る。為家の瘧は6月1日まで続く。
早旦、冷泉に行く。竜寿御前来り坐す。常光院に参ぜらる。春宮に参じ、見参に入る。夕に退出。今日申の時許りに、為家俄に発熱、瘧病の疑いあり。(『明月記』)
5月26日
・鳥羽城南寺歌合せ。3月22日の和歌の清書をするが、定家は難渋する。
良経の仰せ、今日の歌合夕方の由を夜前に聞く。只今、先ず参ずべしとて、参上す。
影供歌合にて、定家講師。通親読師。良経も座にあり、この如き交衆、内々大いに悩ましめ給う。ほとんど先蹤なし。見苦しといえども、ただ仰せに随うの由、仰せらる。例の如くに三題を読み上ぐ。衆議評定により、勝・持の字を付く。各々憧りをなすの間、甚だ久し。時刻を経て、三巻読み上げ終りぬ。又作者を付け、これを読み上げ、終りて退下す。今夜の人々、仰せにより、去る春、三体の和歌を更に清書す。件の本、水に打ち入るるにより、損ずるの故と。
「予、灯暗ク、目見エザルノ間、明日書キ進ラスべキノ由、宗長・清範ニ触レテ退出ス。老眼ノ疲レニ依リテナリ。御共ニ参ジテ退下ス。身体疲レ痛ム。辛苦極マリ無シ。久シク御前ニ坐ス故ナリ。終夜病悩、須ク家ニ帰ルべシ。牛無キニ依り、九条ニアリ。三名ヲ相具セズ。夜鶴ノ思ヒ禁ジ難シ。」
今日、八幡別当僧都、小馬一匹を引き送る。(「明月記」)。
「灯火は暗く、それに、前日には定家最愛の子である五歳になる三名(後年の為家)が発熱をしていて発(オコ)り(熱病・マラリアと考えられる)の疑いがあり、夜の鶴、すなわち子を思う念に、須ク家ニ帰ルべシ・・・。けれどもその次の日、父親定家自身が「猶病気甚ダ不快。起キ揚レズ」なのではあるけれども、三名がまた高熱を出したと聞けば馬を馳せて帰らねばならぬ。しかもその夜は陰陽道にいう方塞がりで、方位が凶であるので家にとまるわけには参らぬ。かくてその明る日はまた水無瀬に行かねはならぬ 」(堀田「定家明月記私抄」)
5月27日
・朝後、なお病気不快、起きあがれず。未の時許りに、扶け起して、良経邸に参じ、昏黒以後に退下。騎馬して冷泉に向う。
為家、午の時許りに重く発るの由を聞くの間、忽ち馳す。只今さむと。今夜又方違えある。よって深更に騎馬して九条に帰る。心中甚だ冷し。(『明月記』)
つづく
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