建仁2(1202)年
2月18日
・九条の宿所に籠居。撰歌して出で行かず。(「明月記」)
2月19日
・辰の時許りに車で京を出て、赤江に於て騎馬、昨日よりの雨にて、路泥々。水無瀬殿に参じ、宿所に入り水干を着して参上す。今日、水干、紺葛にて撫子の文様。~21日。(「明月記」)
2月20日
「相模の国積良の辺に古柳有り。名木の由聞かしめ給うに就いて、鞠の御壺に移植せんが為、彼の所に渡御す。北條の五郎以下六十余輩御共に候ず。また行景を召し具せらる。」。
「左金吾鎌倉に還御す。件の柳これを引かる。即ち石の御壺内に植えらる。行景これを奉行す。但し良木に非ざるの由これを申すと。」(「吾妻鏡」同21日条)。
2月21日
・巳の時に水干を着し参上。小時ありて大臣以下会合す。御簾をかけ、障子を放つ。
午終許りに、院薄青の狩衣にて出御。公卿以下皆水干。兼定、今日参ず。遊女列座し、乱舞例の如し。仰せにより、兼定・定長・実信等物狂い。予、宿所に帰り、淀路より逐電。九条に帰りて髪を洗う。院、二条殿に還御と。(「明月記」)
「この勅命による物狂ヒは、この頃に流行した陽剣という怪しげな舞のことであろう。陽剣は「天子ハ陽道ヲ理(をさ)メ、后ハ陰徳ヲ治ム」(礼記・昏義)とある陽で、陽物すなわち男根であり、陽剣と陰盾が相応じる性交舞踊である。こうなればもう定家も「予、宿所ニ入り、淀路ヨリ逐電。九条ニ帰り髪ヲ洗フ」という次第で、後鳥羽院政に対する批判的な見方もまた生じて来ざるをえないのである。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)
2月22日
・日吉社に参ず。宮廻りして通夜。
晩、車に乗り、女房、小児皆相具して高倉に入る。小時ありて、束帯して、卿三位局(藤原兼子)の重悩を見舞うため二条町に向う。
「追従ノタメナリ」と記しているのは、自らに手厳しい。
退去して参内、蔵人の言により、陪膳を勤む。
今日禁裏甚だ済々。春日の御書所にて作文。文人雲客十二人と。儒者六人。清撰の雲客の中、文字を書かざる人々、多く以て加わる。耳目を驚かす。隆衡・公定・雅親・定通・頼房・長兼・光親・顕俊・長守・範時・頼範。非蔵人三人(基定の猶子、親光の子)。儒者、敦綱・為長・成信・宗業。後に聞く、此の事穢によりて延引。相次いで承明門院に参じて退出。(「明月記」)
2月25日
・藤原基宗(48)没
2月27日
「鶴岡の別当阿闍梨鞠足等を招請し饗応す。これ左金吾内々の仰せに依って此の如し。行景を賞翫せらるるの余りなり。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
2月27日
・良経の許に参ず。夕に御供して院に参ず。やや久しくして御対面。慈円同座。(「明月記」)
2月30日
・兼実の御堂(九条御堂)に参上。一日経あり。卒都婆に経を書く。定家、一品を奉る。
退下し良経の許に参上す。又渡りおわしまし、又退下す。尋常の袖を着し、帰参。(「明月記」)
つづく
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