建仁2(1202)年
3月2日
・定家、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕
3月3日
・巳の時許りに院参ずるの間、鶏合(とりあわせ、雄の鶏同士を闘わせる遊び)。西の中門に於て、公卿以下済々。其の人数に入らず、無骨により、早く出て、承明門院に参ず。
今日、八条院日吉御幸。女房黄門供奉。(「明月記」)
3月5日
・門を閉じて寵居。腹病不快。(「明月記」)
3月7日
・俊成、数日来咳病重篤
3月8日
「御所の御鞠、人数例の如し。この御会連日の儀なり。」。
その後、能員宅で夜を徹して酒宴。舞女微妙の歌、舞、身の上話あり。(「吾妻鏡」同日条)
3月8日
・公景(大江公景、和歌に優れた北面武士)来りて謁す。明日水無瀬一定と。自らの所望にあらずといえども、恩免あるにより、構えて参ずるの間、又悪気に処せらるるか。今度は人数に漏るという。事に於て怖れを懐く。これただ貧窮流れなく、吹挙の人なく、和讒(わざん)の輩あるの故か。薄氷を踏むが如し。沐浴して精進を始める。(「明月記」)
3月9日
・水無瀬不参。院に出車を献ず。(「明月記」)
3月10日
・定慶、興福寺の梵天像を創作。
3月10日
・天明に京を出て日吉に参ず。水に浴し、宮を回り、宿所に入り小食して、帰洛。
今日、雅親中将奉書を送る。来る二十四日、城南寺馬場に於て内の競馬あるべし。二十六日、八幡。二十八日、賀茂。纏頭を用意して参仕すべし。承るの由を申す。
「不運ノ沈老、此ノ如キ晴事、極メテ冷然ナリ」。」(「明月記」)
3月11日
・定家、妻と共に冷泉(新宅)に赴き宿す
「十一日。天陰(かげ)ル。夜ニ入リテ月明シ。未(ひつじ)ノ時許ニ九条(良経邸)ニ参ズ。盛時来タル。聊カ云ヒ付クル事等アリ。即チ大臣殿ニ参ズ。中将殿・少将殿参会シ給フ。程無ク退下ス。秉燭(へいしよく)中将殿八条殿ニ還ラシメ給フト云々。仍テ即チ彼ノ御所ニ参ズ。今夜吉事アルベシ(右衛門督聟取リナリ。但シ儀式無シト云々)。小時アリテ出デシメ給フ。蘇芳(すはう)ノ狩衣(裏同ジ色ノ薄色ナリ)、紫浮文(うきもん)ノ指貫(さしぬき)、白キ綾(御衣、単衣)、紅ノ下袴(布ヲ入レズ)。西ノ門ニ於テ、八葉ノ新車ニ乗ル。予・能季朝臣・国行・国時・伊親・保行等歩ミテ、向殿ニ参入ス(此ノ亭、金吾兼ネテノ日、請ヒ取り、渡り坐スト云々)。御車入ルノ間、諸大夫松明ヲ取ル。侍済々(せいぜい)参入。中門ヲ入り、御車ヲ寄ス。予昇リテ御車ノ簾ヲ褰(かか)グ。下ラシメ給フ。女房御簾(みす)ヲ褰グ。即チ入り給ヒ了ンヌ。退出シ了ンヌ。全ク別ノ儀無シ。此ノ如キ密儀ノ間、毎夜殿上人ヲ具セラルべシト云々。甚ダ益無キ事ナリ。法性寺殿ノ仰セカ。即チ三条坊門二向ハル。女房ヲ相具シ、密々冷泉ニ入り(高倉)小食了リテ一寝ス(文義来タル。聊カ祭ヲ修セシム)。」(「明月記」)
3月14日
「御鞠有り。」。回数は360回、250回。(「吾妻鏡」同日条)
3月14日
・定家、俊成の病を見舞う。19日にも。
3月15日
「今日御鞠終日に及ぶ。」。回数は、123回、120回、120回、240回、250回。(「吾妻鏡」同日条)
その後、頼家と政子、頼家が同情を寄せる都からの舞女微妙の芸を見る(「吾妻鏡」同日条)。
父親を捜し、京都から下向していた舞女の微妙が、3月8日、将軍頼家の御前で歌舞を披露し、涙ながらに父のことを訴えた。父右兵衛尉為成は微妙が7歳のとき、讒言にあって陸奥国に流され、母は嘆きの余り死んでいた。この日、政子も微妙の舞いを見、その孝心に感心したため、奥州へ使いを遣り、為成の消息を尋ねたところ、8月5日、既に死亡していたことが判明した。このことを聞いた微妙は、8月15日栄西のもとで俄かに出家してしまった。微妙は甲斐国御家人の古郡保忠(ふるごうりやすただ)と婚約していたため、出家のことを聞いていなかった保忠は怒り、寿福寺周辺が騒動となった。
3月16日
・院、水無瀬殿より、七条殿に還御と。(「明月記」)
3月18日
・定家、古歌を見て日を送る。作歌に対する倦怠感が見える。
「此ノ間、只古歌ヲ取り乱シ、之ヲ以テ日ヲ送ル。他ノ営ミ無シ。甚ダ無益ナリ」(『明月記』)
3月19日
・此の間、足いささか腫れる。脚気甚だ術なきの間、病と称して出でず。
申の時許りに御堂に参向す。今日、(九条家)百万本の卒都婆供養。各々書経と。定家、心地観経一巻を請い奉る。捧物は最略、左道なり。人定めて嘲弄するか。重畳術なきの間、恥を忍ぶ。(「明月記」)
3月20日
・良経参ぜしめ給うと。病気によりて参ぜず。申の時許りに、題を給わる。明後日詠進すべしと。(「明月記」)
3月21日
・良経の許に参向。八条殿の影供に参ず。近日久しく籠居、神社御幸の如き事、惣じて聞き及ばず。(「明月記」)
3月22日
・朝廷、新制21ヶ条を下す。諸社の濫訴を停止、神人僧徒の濫行を停止、僧侶の兵仗を停止など(「玉蘂」)。
3月22日
・この日の久しぶりに定家(41)に歌の用ができる。「三体和歌」、次いで当座歌会。読師を勤める。
召しにより、良経邸に参向。終日往反。
秉燭の程、御供して参院。今日和歌六首。その内、三体を分ちて詠進すべきの由、仰せ事あり。極めて以て計り得難し。
亥の時許りに、和歌所に出でおわします。召しによりて御前に参ず。仰せによりて和歌を書く。又仰せによりて読み上ぐ。良経取り重ねしめ給う。召しに応ずる輩、長明・家隆・定家・寂蓮・慈円・良経なり。御製のほか六首。有家・雅経催しあれど、所労にて参ぜず。自余、催しなし。今夜の歌、各々よろし。
次いで当座の会あり。秀能参加。
暮春。又仰せによりてこれを読み上ぐ。入りおわしまして退出。(「明月記」)
三体は、大きに大き歌(春夏)。からび(やせすごき由なりと)秋冬。艶体恋・旅。三体の詠み分けは、此の頃より始まるか。
「建仁二年三月からの、この間約二ヵ月のあいだに歌人としての定家に歌の用があるのは、三月廿二日と五月十二日の二回だけである。あとはすべて陪席、陪膳(給仕)、扈従等である。彼は鴨長明などとともに和歌所の寄人なのだが、この役所の会合、あるいは会議というものが明月記によってみると、定期的というのではなくてどうやら不定期、随時というに近いもののようであったから、毎日何やかやと雑用がありながらつねに「喚ニ応ズル」ための、すなわち歌のための心づもりをもしていなければならなかった。三月廿二日の会は夜に入ってはじめられ、「今夜和歌六首(其ノ内三躰ヲ詠進スベキノ由、仰セアリ。極メテ以テ計り得難シ)」とあり、この時は前々に題をもらっているのではあるが、やはり容易なことではなかったようである。」(堀田善衛「定家明月記私抄」)
「三月二二日には、院自身の創案による斬新なスタイルの六首和歌会が持たれている。春夏は「大ニフトキ歌」で、秋冬の歌は「からび」調、そして恋と旅の歌は「艶躰」で、それぞれ詠すべしというものであったから、定家も「〔極めて以て計り得がたし〕」と苦吟している。結局、上皇の求めに応えることができたのは六人(長明・家隆・定家・寂蓮・慈円・良経)であった。」(村井康彦「明月記の世界」)
3月23日
・定家、八条院の美福門院仏事の参仕
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