建仁2(1202)年
6月5日
・定家、後鳥羽院の『水無瀬釣殿当座六首歌合』の作を賜り拝見。
夜より甚雨。終日濛々。巳の時許りに参上す。
未の時許りに出でおわします。清範を以て、御製を賜る。一見を加え返上すべきの由、仰せ事あり。拝感するの由これを奏す。一日六首なり。
久しき恋
おもひつつへにける年のかひぞなきたがあらましのゆふぐれのそら
此の題、殊に以て殊勝々々。遊女退下の後、小時ありて向殿におわします。この間、雨を凌ぎて退出す。笠破れて、濡れとおる。還御十五日と。(『明月記』)
〈後鳥羽院、定家二人のみの歌合(水無瀬釣殿当座六首歌合)〉
定家、後鳥羽院の歌を賜って見る。久しき恋の歌、殊に秀歌だった。この歌は、『新古今集』に入集、「水無瀬にて、男ども、ひさしき恋といふ事をよみ侍りしに」の詞書がある。有家・定家・家隆・雅経が推している。隠岐本新古今にも削られていないので、院の自讃歌である。定家は、この歌を『二四代集』に抄している。定家は、この日、院の歌を、全部書こうとしたが、最もいい歌のみをはっきりと記憶したのだった。
思ひつつへにける年のかひやなきただあらましのゆふぐれの空
丸谷才一氏は、後鳥羽院の「へにける年」の歌は、「まさしく時間性の情緒そのものを歌っている点で、定家以上に定家的なのである。すなわちここには、重層性にかけても時間性にかけても、彼の恋歌の方法の若くて優秀な継承者がいた。この一首に接したとき定家はおそらく、ついに自分の歌風が宮廷を制覇したと感じたことだろうし、それはわずか二年前までの不遇とくらべ、ほとんど信じがたいほどの勝利であったにちがいないのである」と、鋭く定家の感激、自負を指摘された。まことに二人にとって、記念すべき夕であった。(山中智恵子『「明月記」を読む 藤原定家の日常』)
6月6日
・通夜、甚雨。午後、注ぐが如し。夜に入りて、洪水漸く室字を浸す。
巳の時許りに、騎馬して参上。雨殊に甚だし。江口の遊女愁歎す。
例の如くに向殿におわしまして後、六角の宰相、若州等と同船し、宿所に退く。
水無瀬川、すでに深さ馬鞍に及ぶ。水末だ塔の中に入らず。しばらくして入る。小食の後、水ようやく座上に上る。雨、いよいよ甚だし。土人等いう、今夜大事に及ぶべからず、明日洪水かと。
愚案、寝らるるの後、俄に洪水に及ばば、はからい周章すべし。先ずこの所を去るにしかずと。即ち営み出でて、播磨大路の小家に押し入り、これに宿す。(『明月記』)
6月7日
・早旦、下人等の説にいう、水すでに御所に及ぶ、よって通親の直盧に渡りおわします。長廓、すでに水底となり、兵士の屋、流れてしまったと。末だ定説を聞かず。
巳の一点許りに小食を終り、六角宰相と船に乗り御所に参ず。日来の宿所等、ことごとく水底となる。平蔀わずかに出づ。船を釣殿に寄せ、下の簀子敷(すのこじき)に参上。水、向御所を浸し、已に板敷の上にのぼる。下の貴子敷に参上す。檜垣(ひがき)等、皆押し流す。
今朝還御の儀、出で乗る。事なお危急により、又留まると。晴光御卜に奉仕す。雨、なお止むべからずといえり。
巳の時許りに御寝。午の時、又出でおわします。御船におわしまして遊覧あり。
此の間に相公・左中弁等と同船し、又退下す。冷気術なきの故なり。
還り入るの後、播磨大路の小家を借り得て、移り坐す。この家広く、極めて以て悦びとなす。一寝するの間に、日暮れる。
洪水怖畏ありといえども、あながちに京に出づ。桂川に於て船なし。やや久しくして、相尋ぬ。渡し守を召し出し、漕ぎて渡る。亥の時許りに、冷泉に入り、心緒を述ぶ。(『明月記』)
御所に侵水に及んでも、院は遊覧に出かけるという遊狂ぶりであった。
6月8日
・早旦に沐浴。巳の時許りに京を出づ。鳥羽の北に於て船に乗る。水、あふれて船速し。衣裳を取り寄せ、船中に於て着替え、直ちに御所に参ず。(『明月記』)
6月10日
・定家、石清水八幡宮に参詣。「袖」「袂」をともに詠むのは歌病か否か、良経に尋ね、証歌が見出せなかった夢を見る。
未明、船に乗り、八幡に参ず。天明、宝前に参ず。すなわち、宿所に帰る。
巳の時許りに参上す。程なく出でおわします。水の御遊びなり。釣殿の方に出でおわしますの後、相公と相共に退出す。不堪の輩、同道す。
昨日、申す所の歌の事、今夜の夢想に、良経此の御所に御坐す。予、申して云う、袖たもとの證歌、覚悟(さと)らず。病となすべきか否かと。仰せていう、旧例覚えず。此の物を見るべしと、塗の皮子を給う。其の中の草子を取りて引見するの処、其の歌なし。よって、昨日の申し状、後悔の思いをなす。恥しく思いて寝ね終りぬ。此の事を思うに、甚だ恐れに思う。よって家長に語る。家長、日ならず奏聞す。もっとも片腹痛し。ただし、御信受の気ありと。
今日、馬允知重、白拍子の女、六十余人を召し集めて参入すと。五人を択びて採る。其の外は、明旦に、帰洛せしむべきの由、仰せらるると。
夜に入りて、八幡別当僧都、垸飯を送る。存外の芳心、驚奇す。奇を好むによりて、此の好みあるか。(『明月記』)
6月11日
・巳の時、早く参ず。未の時許りに出でおわします。向殿におわしまして後、退出。長房朝臣をもって、明日御狩の間、各々たしかに候すべきの由、仰せらる。
「旅亭ノ晩月明カシ 単寝(ひとりね)ノ夏風清シ
遠水茫々タル処 望郷ノ夢未ダナラズ
おもかげはわが身はなれずたちそひてみやこの月に今やねぬらむ」(『明月記』)
6月12日
・早旦に御幸、すでに出でおわしますと。
字治山の方、片野路より木津川を渡る。その道、殊にわずらい多しと。
巳の時許りに留守のため参上す。六人伺候す。
秉燭以後、入りおわしまして後、退出す。
今日の狩頗る興なしと。明日還御一定の由、聞えあり(『明月記』)
6月13日
・巳の時許りに、水干を着して参上す。今日、人々皆狩衣を着す。木工、今朝参ず。独り水干なり。恐れをなすといえども、相具せざるの間、しばらく伺候す。
申の時に及びて、出でおわします。例の儀の如く、一反舞い終りぬ。各々騎馬す。今日、女房御供の催しなし。御幸、例の狩装束と。
すなわち先陣し、直ちに京に帰る。昏黒冷泉に入る。(『明月記』)
14日間に亘る水無瀬御幸が終った。
つづく
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