神坂次郎『藤原定家の熊野御幸』(角川文庫)
正治3/建仁元(1201)年
10月19日
・晴天。定家、遅明(夜明け)に宿所を出て出発。輿が来たので乗る。
「山海ノ眺望、興無キニアラズ。」
此の道に又王子数多御坐す。新宮から那智権現へは、浜王子・・・佐野王子・・・浜の宮王子と、海辺の道が続く。この海べりから見る熊野灘の海景は、旅人の心を惹き付ける。しかし、咳と腹痛に悩む定家はそれどころではなかった。
午ノ刻(昼12時)に浜の宮王子に到着し、未の時(午後2時)、那智に参着す。
先ず滝殿を拝す。
「嶮岨ノ遠路ハ、暁ヨリ不食ニテ無力、極めて術(ずち)なし。」。次いで御前を拝し、宿所に入る。
「小時、御幸アリト云々、日入ルノ程ニ寶前ニ参ル。御拝ノ間ナリ、又祝師(はふりし)ノ禄ヲ取リ了リ、次ニ神供ヲ供ヘシメタマフ。別當之ヲ取リ儲クル所ナリ。公卿次第ニコレヲ取継グ、一萬十萬等御前、殿上人猶次第ニ之ヲ取継グ、予、同ジク之ヲ取ル、次ニ御経供養所ニ入御、例ノ布施ヲ取リ次に験競事(げんくらべ)ト云々、此間ニ私ニ奉幣シ宿所に退下」
那智にて歌会二座。深更御所に参ず。和歌二座終りて退下。
「窮屈病気ノ間、毎度夢ノ如シ。」
10月20日
・暁より雨降る。定家、松明なし。天明くるを待つの間、雨忽ちに降る。晴るる間を待つといえども、弥々注ぐが如し。よって営み出でて一里ばかり行く。
天明、風雨の間、「路窄(せま)ク、笠ヲ取ル能ハズ。蓑を著(つ)ク。輿ノ中、海ノ如ク、埜(野、の)ノ如シ。」。
「終日嶮岨ヲ超ユ。心中ハ夢ノ如シ。未ダカクノ如キき事ニ遇(あ)ハズ。雲取、紫金峯(さながら掌を)立ツガ如キカ。」(熊野街道最大の難所である大雲取越え)
山中只一字の小家あり。右衛門督(藤原隆清)の宿なり。定家相替りて、某所に入る。形の如く小食す。又衣裳を出す。只水中に入るが如し。此の辺りに於て、適々雨止む。
前後不覚。
戌の時(午後8時)許りに本宮に着き、寝につく。
「此の路、嶮岨過ぎ難し。大行路ニ於テハ記スニ遑(いとま)能ハズ」
10月21日
・頼家、「御所の御鞠」。回数は950回であった。(「吾妻鏡」同日条)。
10月21日
・晴天。定家、天明、御所に参ず。宝前に参ず。御拝終りて礼殿に入りおわします。又御加持、此の間に退出す。
先陣し、湯河昼養所を馳せて、近露の宿所に着く。
10月22日
・晴天。定家、払暁、近露を出て、滝尻に下りて、マナコの小屋に昼養す。
未の一点(午後1時)許りに、田辺の宿所に着く。
日入りて後、この宿所を出づ。切部を過ぎてイハに入る。明日、三宿を超ゆべし。遠路、稠人(ちゆうじん、大人数)術なきの間、今夜、かくの如く迷惑す。鶏鳴の程に、この宿所に入りて、一寝す。
10月23日
・晴天。定家、日出づるの後、川(日高川)を渡りて、小松原を過ぎ、シシノセの山を超え、午始ばかり(午前11時)に、湯浅の宿所に入る。
この所、五郎という男、宿所の事甚だ過差なり。予、感に堪えず、所の鹿毛の馬を与う。
今日適々(たまたま)休息。終日偃れ伏す。
やっとまた湯浅に帰って来た。この宿所の五郎という者、もてなし極めて手厚いのに感じて、定家は気前よく馬を贈る。もうすぐ都に帰れるし、今日はたっぷり休息できるという気持ちのゆとりもある。
10月24日
・天曇る。雨降るも間々やむ。
定家、暁出発。蕉坂、藤代山を超える。雨また甚だし。路頭に度を失う。
藤代の宿所に入り、小食。
終りて、又道中、雨を凌ぎてヲノ山を超え、申の時(午後4時)許りに、信達の宿に入る。
国の沙汰する者、菓子の如き物を送る。
10月25日
・晴天。定家、暁御所に参ず。大鳥居の小家に於て食事。
出でて住吉、天王寺を過ぎ、ナカラ(長柄)宿所に入る。京より到来した船に乗る。此の宿は、細川庄成時の沙汰である。
馳せて水無瀬の宿に入る。山崎の前の宿所である。今日、十五六里を過ぎた。
御幸、長柄より御船。一寝す。
10月26日
・晴天。鶏鳴の程に御幸。天明に、鳥羽の御精進屋に入りおわします。次に稲荷に御幸し、御拝、御経供養。即ち二条殿に入りおわします。
これより退去し、九条に入りて小食。即ち馳せ出て日吉社に参ず。私の宿願によるなり。
おそらく、無事、熊野御幸の供奉を終えたことの御礼参りであろう。
清閑寺の辺りに於て、松明を取り、京に帰る。髪を洗い沐浴して寝につく。
長い精進終り、今夜は魚食である。
10月27日
・定家、早朝に、道中の雑物、悉く水を以て洗う。又雑物などを取りあつめて、先達の許に送る。これは恒例であり、文義が万事沙汰した。
つづく
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