2023年5月10日水曜日

〈藤原定家の時代356〉建仁2(1202)年1月1日~29日 兼実出家 政子、蹴鞠に執着する頼家に忠告 「御興遊定めて人の謗りを貽すか。然るべからずと。金吾蹴鞠に於いては機嫌を論ぜざるの由申さしめ給うと雖も、終に以て抑留せしめ給うと。」(「吾妻鏡」)

 


〈藤原定家の時代355〉正治3/建仁元(1201)年12月2日~30日 定家、日吉社参籠(官位昇進の祈願の為) 兼実妻の葬儀に参列せず 「夢想已ニ虚ナリ」 石清水社歌合 より続く

建仁2(1202)年

1月

・延暦寺の静鑒等が兵仗の禁を犯す。延暦寺所司にこれらを差出し兵器を没収するとの宣旨が下るが、静鑒等はこれに対抗、寺官を追い却し、所司は傷つき後に没。天台座主が無動寺より兵を派遣してこれを討つ。合戦し静鑒等を追い却す(「華頂要略天台座主記」)。

1月1日

「正月一日。丁未。天霄。朝ノ間、雪飛ブ。未ノ時ニ束帯シ(例節会ノ如シ)。先ヅ五条前斎宮ニ参ズ (当初、幼少ヨリ居住スル旧宅ナリ。宰相中将、仲資王ニ与へ、押小路ノ宅ヲ相伝シ給フト云々)。女房ニ謁シテ退出シ、院ニ参ズ。」(『明月記』)

1月3日

・己酉(つちのととり。御弓場始(ゆばはじめ)(「吾妻鏡」同日条)

1月4日

・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に供奉。5日も。

1月9日

・定家、日吉社に参詣。

1月10日

・頼家、「御鞠始めなり。」。回数は120回、310回。

12日「また御鞠有り。」。回数は500回。(「吾妻鏡」同日条)"

1月12日

・定家、後鳥羽院法勝寺御幸に供奉。

1月13日

・定家、和歌所年始御会出席。講師を勤める。

1月14日

・新田義重(68、89とも)、没。源義国の長男。新田氏の祖。(「吾妻鏡」同日条)

1月14日

・兼実北政所の葬送の後、宜秋門院の越中の局が出家したという。

定家、九条殿仏事に参仕(「明月記」)

1月15日

・後鳥羽上皇との間に土御門天皇を生んだ在子(源通親の養女、能円と範子の娘)、准三后となり院号を定めて「承明門院」と名づける。

1月18日

・定家、兄の静快と共に「冷泉北ノ地ノ小家」を検分。蓮華王院仏事に参るも、病気により早出す。

新宅については、3月11日に妻とともにそこに泊り、その後普請をはじめたらしく、7月13日には仮棟上げ、8月27日には「半作ト雖モ」目途はついた。そして、その未完成の家に、長年にわたる妻の要望であった、長く妻を養ってくれた老尼を住まわせることができた。

1月20日

・定家、故兼実室の仏事に参仕。

1月21日

・定家、良通室の九条御堂一品経供養に参仕。

1月23日

・定家、八条院の美福門院月忌仏事に参仕。

1月24日

・定家、良経の仏事に参仕。

1月25日

・式子内親王一周忌の法事。入道左大臣藤原公房の経営で、式子の旧院大炊殿でいとなまれる。この日、定家は、出家した女房に逢っただけで帰る。この尼は、式子に長年仕えて重用された4歳年長の定家の同腹の姉竜寿御前や異母姉の前斎院女別当であろうと推測できる。この日、女房たちはちりぢりに旧院に別れて、それぞれの落着先に退出した。「前斎院大納言の局」がここを出て、左女牛(さめがい)に移るので、その車を定家が用意する。

次いで宜秋門院の仏事に参仕。

「午ノ時許リニ束帯シテ大炊御門ノ旧院ニ参ズ。今日御正日ナリ。入道左府経営サルト云々。彼ノ一門ノ人済々。予、衆ニ交ハラズシテ、尼ニ謁ス。大納言殿退出(今日、此ノ院ヲ出デ、左女牛ノ小家ニ住セラルベン。仍テ車ヲ借ス)。」(『明月記』)

1月26日

・定家、良輔の仏事、次いで兼実の仏事に参仕。

1月27日

・定家、後鳥羽院尊勝陀羅尼供養に参仕。

1月28日

「卯の刻大地震。辰の一点に朝日両輪を見る。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月28日

・俊成、定家の家に来る。隆信の使者が来て、夜前、兼実出家と伝う。俊成帰って後、法性寺の新御堂月輪殿に参入。法然上人により出家、剃髪。

これらの事、皆以て急ぎの由。貴賤の妻室の四十九日に、夫が遁世すること、頗るその例を聞かず。去年の秋、兼実出家のことを世間風聞したが実なし。今度かくの如し。頗る然るべからざるものなり。又後の嘲りあるべきか。と定家は危倶する。

退出して九条殿の里第に在る、宜秋門院に参ず。

「院中偏へニ以テ流漂荒廃ス。已(はなは)ダ以テ人無キガ如シ。眼前ノ盛衰誠ニ悲シムベシ」

1月29日

・政子、人望を失いつつある頼家の再度の忠告。蹴鞠の為に中原親能の亀ヶ谷の宅に向かう折り、「源氏の遺老、武家の要須(ようす)」新田義重が死んで間もない今日、そうした興遊は人びとの謗りを招くから止めるようにと言い遣わし、頼家は、不本意ながら政子に従う。

「掃部入道亀谷の宅に於いて御鞠有るべきの由、兼ねて定めらるるの間、殊に結構せらる。金吾出御有らんと欲するの処、尼御台所行光を以て申されて云く、故仁田入道上西は、源氏の遺老、武家の要須なり。而るに去る十四日卒去す。未だ二十日に及ばず。御興遊定めて人の謗りを貽すか。然るべからずと。金吾蹴鞠に於いては機嫌を論ぜざるの由申さしめ給うと雖も、終に以て抑留せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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