神坂次郎『藤原定家の熊野御幸』(角川文庫)
正治3/建仁元(1201)年
10月16日
・この日、ようやく本宮に到着。
晴天。定家、払暁に発心門を出づ。内の水飲、祓戸(はらいど)の王子に参ず。
「山川千里ヲ過ギテ、遂ニ宝前ニ奉拝ス。感涙禁ジ難シ。」
これより宿所に入る。遅明、更に帰りて祓殿に参ず。近辺の地蔵堂に入り、更に衣食を取り寄せてしばらくを経て、巳の時(午前10時)許りに御幸。御供して宝前に参ず。
「コリ訖(おわ)リ奉幣ノ装束、新物ノ立烏帽子、ハバキ、ツラヌキを著シ、・・・左中弁金銀ノ御幣ヲ取リコレヲ進ムコノ間親兼朝臣ハ白妙の御幣を取る。・・・(先ず證誠殿、ついで両所、若宮殿。ついで一万十万の御前)・・・予ハ被(かずけ)物ヲ取リコレヲ給ふ。・・・スナハチ御経供養御所ニ入御。公卿ハ西ニアリ。殿上人ハ東にあり。」。
この間に、舞相撲あり、其の儀を見ず。
「予、退下ス。・・・咳病殊更ニ発(おこ)ル。為方無シ。心神無キガ如シ。殆ド前途ヲ遂ゲ難シ。腹病痟𤸎(せうかち)等競い合う。」。加持の僧12人が来てくれたが、「貧乏ニ依り、綿各々七両」しかやれなかった。
秉燭以後に又垢離。此の事時に臨み、病術なきによるなり。
又昼の装束を着け、先達と相共に、御前に参じて奉幣。此の経所の路より、宿所に入る。
本宮にて歌会二座。
「病ヲ扶(たす)ケテ又御所ニ参ズ。数刻、寒風病身為ス方ナシ。深更ニ召入ラレ、二座ノ和歌。発心門ノ歌二首。歌ハ凡テ尋常ニ非ズ。希有ノ不思議ナリ。予ハ窮屈病悩為ス方ナシ。読ミ上ゲ了(おわ)リテ退出、心中亡キガ如ク、更になす方なし。」
昼は峻岨を攣じ、あるいは河を渡り、夜は歌合。休む隙のない奉公である。
10月17日
・宜秋門院(任子、兼実の子)、出家。後鳥羽院・定家が熊野御幸で京都を離れている間。
定家は帰洛してからこのことを知る。「殿下頻りに難渋し申さしめ給い、御髪を被(き)らず」(「明月記」)とあり、父兼実のの制止を振り切って出家を遂げた佳子が髪を下ろそうとする、それを、「髪だけは止めてくれ」と言って必死で止める兼実。
後鳥羽院不在中の中宮の出家は、院との訣別の表明であった。
通親が翌年に没していることを考えると、もう少し我慢すれば再入内もあり得たか。しかも、通親の死後、兄良経が内覧宣旨を受け土御門天皇の摂政となっているから、その可能性はさらに高まった。
任子の悲しみは、まだ続く。
この年12月19日、母(兼実の北政所)が亡くなり、翌建仁2年(1202)1月27日には兼実も出家。更に、内覧になった兄良経も建永元年(1206)3月7日、突然没する。
そんな任子に追い打ちをかけるように、同年8月24日、任子の女院御所が焼亡する。
そして、翌承元元年(1207)4月5日、父兼実が亡くなる。任子は8月21日、封戸(ふこ)を辞退する。
彼女に残された唯一の望みは、娘の昇子内親王だった。
昇子は承元3年に、元服した東宮守成親王の准母とされ、「春華門院(しゅんかもんいん)」の院号宣下を受けている。慈円は『愚管抄』でこの院号を春華=桜は(早く散るので)短命を暗示するとして非難した。
その慈円の不安が適中したかのように、昇子内親王はそれから2年後、建暦元年(1211)11月8日に17歳という若さで母に先立っている。
佳子は、翌建暦2年1月7日に、院号・年官・年爵を辞退した。こうして長く彼女を苦しめた内裏との縁も終わりを告げた。
任子は、暦仁元年(1238)12月28日、65歳で没している。その2ヵ月足らず後、延応元年(1239)2月22日、後鳥羽院が隠岐で60歳の生涯を閉じた。
10月17日
・定家、本宮に逗留。夜雨降る。「今朝猶陰、風甚ダ寒シ」。明日、新宮に下向。船更に以てこれなしと。御船の召し以下、皆欠如と云々。
病を扶けて、未(ひつじ、午後2時)の時許りに御所に参す。
御所前庭両塔の前東西の行に筵を敷きて客僧の座となす。
今日、人々皆、楚々の装束を着く。定家独り存ぜず、日来御会の装束を着く。甚だ見苦し。
此の間、御前に参じて、心閑かに礼し奉る。祈る所は、ただ出籬生死臨終の正念なり。
ついで山伏を御覧ず。公卿・殿上人又御前の近邊に候す、山伏の作法は恒例と云々。
寒風術なし。宿所に入る。
今夜種々の御遊あるべしと。此の先達験競(げんくらべ)の事を構うと云々。所労により宿所に臥す。
10月18日
・晴天。定家、天明、宝前を拝す。河原に出でて船に乗る。
(17日は雨のため進発は一日延期となり、定家と先達の一行は早朝、御幸に先行して熊野川の急流を下る)
川の程に種々の石あり。未の一点許りに(午後2時)新宮に着き、拝し奉る。
小時にして御幸例の如く前行して先ず寶前に参らしめ給ふ。御奉幣は本宮の如し、予祝師之禄を取る前の如し。稠人(人の多きさま)例の如き。帰參して、御経供養の布施取る、次に例の如く乱舞、次に相撲有り此間に宿所に退下。
夜に入り加持のため宝前に参ず。
新宮歌会。御所に参じ、例の和歌終りて退下。又序あり。
疲労のせいか、「例の如し」が多用されている。
つづく
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