〈藤原定家の時代366〉建仁2(1202)年7月1日~21日 定家の体調不良(不食の病)続く 慈円、天台座主辞任 俊成卿女(定家の14歳上の姉)、歌をもって院へ出仕 定家、後鳥羽院の水無瀬御幸に参仕(7/16~25) 定家、後鳥羽院から白拍子一人を与えられるが困惑して同宿せず 寂蓮(定家の兄、俊成の養子)没 より続く
建仁2(1202)年
7月22日
・定家、翌日の除目に向け内大臣源通親屋敷に赴き官位を所望。同時に卿局にも書状で訴え。
早且に御狩あり。字治山の方に出でおわします。昨日、殊に留守に候すべきの由、仰せらる。巳の時に参上す。
未の時許りに、通親の宿所に向う。兼経を以て、所望の事を達す。又仮名状を以て、卿三位の局に示す。この所望の事、更に叶うべからざる事、ただ富有の者、官を買うのみ。台盤所より、盃酒五色を出さる。五六人、この事に預かる。
夜に入り、還御、見参に入りて退出。
■この時の申文(自筆、東京国立博物館蔵)
自分は少将の中で最も古く、四代の天皇に仕えていて、後鳥羽天皇の殿上人には寿永2年の秋からなっており、その奉公の労は既に20年に及んでおり、中将に昇進させて欲しい。今の中将の中では兄成家の外は、皆、私よりも下臈である。
兄弟が中将となっている例は藤原斉信・道信兄弟の時から多く見える、定家は常に兄弟で同官であった、近年では三位に藤原経家・顕家兄弟が相並んでおり、台閣(弁官)7人の中に藤原宗隆に長兼が加任され、夕郎(蔵人)の3人の中に藤原光親に顕俊が並び補されているなどの兄弟の例がある。それでも中将が駄目ならば、便宜の要官に遷任して欲しい、たとえば内蔵頭・右馬頭・大蔵卿など、もしその欠員が生じたならば願う、と懇望。
しかし定家の所望はこの時には受け入れられず、六条藤家の歌人の藤原有家が大蔵卿に任じられ、それが「和歌質」であったことを聞き、「慟哭して余り有り」と慨嘆する。
7月23日
・頼家、従二位に叙せられ、征夷大将軍に任ぜられる(鎌倉第2代将軍)。
7月23日
・除目では、卿局の夫藤原宗頼が権大納言、卿局の甥藤原範光が参議となり、定家には沙汰無し。
「近代ノ除書、偏へニ只冥顕内外ノ売買ナリ。物無ク價(あるいは償)無キノ人、嗟乎何ヲカ為サン。・・・執奏ノ人、甚ダ忠ナラザルカ。九重ノ天子、之ヲ知ラズ。悲シキ哉、悲シキ哉」(『明月記』7月23日条)
7月24日
・除目で六条家の有家が和歌の賞として大倉卿に任ぜられた。
午の時に参上す。以前に出でおわしまし、遊君すでに歌う。白拍子あり三人二度舞う。事終りて、通親の家におわします。女房又おわしますべしと。
「按察使泰通・有家、叡慮ヨリ、之ニ任ズト云々。和歌ノ賞卜云々。幸運、左右ニ及バズ。生レテ斯ノ時ニ遇ヒ、和歌ノ賞ヲ見、独リ身ノ恥ヲ遺ス。宿運ヲ顧ミルト雖モ、猶吾ガ道ノ名ヲ廻ラスニ慟哭シテ余リ有リ」(『明月記』)。
7月25日
・参上す。例の如くに向殿におわします後に退出。直ちに京に帰る。
暑気堪え難きにより、牛童を呼び出すといえども車なし。よって更に東河に赴く。塩小路より、昏黒、蓬屋に入りて休息。(『明月記』)
7月26日
・窮屈かたがた術なきにより、今日倒れ臥す。(『明月記』)
7月27日
・定家、後鳥羽院の水無瀬御所での遊興をのさまを、「物狂い」といい「河陽歓娯(かやのかんご)」は尽きる事が無いと歎く。
日出づる以後、京に出で、帰りて参ず。即ち御所に参上す。小時ありて出でおわします。
今日聞くところによれば、還御すでにその期なし。しかれども、宗頼卿の拝賀により、あからさまに京にお出であるべしと。河陽の歓娯、休日なしといえども、臣下の拝賀により、一旦京に出でおわします。乱心の心、弾指して余りあらざるか。世上の儀、ああ悲しき哉。又如何せんや。(『明月記』)
「定家は、七月廿七日に、
「河陽ノ歓娯、休日無シ」
と書く。
河陽は、「山陽、南海、西海の三道より往返するの者、この道にしたがはざるなし」と大江匡房の遊女記に言うところである。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)
7月28日
・早旦に参上す。時成朝臣をたずね、密々心中の思いを述ぶ。
背腰の間に腫物あり、薬を付くべきの由、通親以下に申し、披露をなして退出。これ、定めて生涯を失するか。但し夢幻の世、病みて痛むべからず。
明日、上皇あからさまに京に出でおわしますと。悲しむべし、悲しむべし。(『明月記』)
7月29日
・「御鞠有り。」回数は120回、450回。(「吾妻鏡」同日条)。
7月29日
・夜に入りて密々文義を相具し、北野社に参じて通夜、暁鐘を聞くの後に帰宅。(『明月記』)
8月6日
・早且、嵯峨に向い、夕に帰る。(『明月記』)
8月8日
・定家、武士の子の歌を好む者を招く。内藤盛時の子の知親。
「盛時ノ子男、東国ヨリ上洛シ来タル。此ノ男、和歌ヲ好ムニ依リテ、喚(よ)ビ出ス。道ニ於テ、頗ル其ノ意ヲ得。京人ニ勝ル。奇トスべシ」(『明月記』)。
8月9日
・日吉の精進を始める。(『明月記』)
8月10日
・夜に入り、俄に題を給う。三首の歌合を詠進せよと。(『明月記』)
8月11日
・卯の時許りに御所に参ず。初めに新宮に参ず。思う所あり。家長朝臣を以て、祝を申さしむ。仁毛の馬を引き進む。此の事、この間思う所あるに依る。又精進のついでなり。
即ち退出、又参上す。家長、夜前の歌合を持ち来る。新宮に於て、読み上ぐべきの由、仰せなり。此の間、神泉苑に御幸と、今日此の宮、旬の神供あり、家長これを据えられ、歓杯を出さる。入輿の由か。
未の時許りに追出し、日吉に参ず、夜に入りて参着、宮廻り通夜す。
今日、健御前はじめて広隆寺に参ず。(『明月記』)
8月12日
・暁、京に出で、即ち院に参ず。又坊城殿におわします。
良経の許に参じ、見参す。三位中将殿、日来悩み給う。(『明月記』)
つづく
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