神坂次郎『藤原定家の熊野御幸』(角川文庫)
正治3/建仁元(1201)年
10月10日
・夜より雨降る。遅明に止み、朝陽ようやく晴る。昼天なおくもる。
定家、払暁に雨を凌ぎて道に赴く。但し道遠きによりて、文義の勧めもあり久米崎王子の樹叢に向いて拝す。次いで井関の王子に参ず。此の所に於て、雨ようやく止む。夜又雨。
次いでツノセの王子に参ず。ついで又シシノセノ山に攣じ昇る。崔嵬嶮岨、巌石昨日に異ならず。此の山を超えて沓掛(くつかけ)の王子に参ず。シシノセを過ぐ。椎原の樹陰しげく、路甚だ狭し。此の辺りに於て、昼養の御所ありと。又私に同じくこれを儲く。しばらく山中に休息して小食。
此所に於て、上下木の枝を伐ち、随分槌を造る。榊の枝につけて持ち参ず。内ノハタノ王子、各々之を結びつくと。
次いで柴原に出で、又野を過ぐ。萩薄遥かに靡(なび)く。眺望甚だ幽なり。此の辺り高家と。此の所、共に便する事あり。但し、未だ尋ねるを得ず。
次いで又愛徳山の王子、クワマの王子。ついで小松原の御宿に寄る。御所の辺りの宿所に向うの処、すでにこれなし。国の沙汰する人、成敗してこれを献ず。
仮屋貧乏の間、無縁の者その員に入らず、小宅を占めて簡(名を記した木札)を立つるの処、内府(通親)の家人、押し入りて宿し終りぬ。ただ人の涯分によりて偏頗(へんぱ)するか。相論ずるに及ばず。
此の御所、水練の便宜あり。深淵に臨みて、御所を構う。即ち遥かに打ち過ぎて、宿所を尋ねる。河を渡りて、石内(いわうち)の王子に参し、この辺りの小家に入る。重輔の庄という。
秉燭以後に甚雨。今夜甚だ熱く、三伏(暑い盛り)に異ならず。帷を着く。南国の気か。蝿多く又夏の如し。
10月11日
・雨降る。申(午後4時)の後にいささか止む。夜に入りて月朧々たり。
定家、遅明(ちめい、夜明け)に宿所を出でて山を超え、塩屋の王子に参ず。
熊野に向かう道はこの辺りから熊野随一の景観と言われる海べりのみちになる。
此の辺り又勝地。祓あり。
ついで昼の宿に入りて小食。次いで上野(うえへ)の王子。この辺りより歩み、津井(ついの)王子、イカルガの王子、切部(切目)の王子に参じて、狭少の海士人の平屋の宿所にいる。御所の前である。小時あって歩んで御幸。
晩景に題あり。切部王子歌会。即ちこれを書き、持ちて参ず。歌を読み上げ終りて戌時(午後8時頃)早々に退出。
此の宿所に於て、塩垢離をかく。眺望の海、甚雨にあらざれば、興あるべき所なり。
病気不快。寒風枕を吹く。
10月12日
・晴天。定家、遅明御所に参じ御前に出づ。先陣して又山を超え、切部中山の王子に参ず。ついで浜に出でて、磐代の王子に参ず。
此の所、御小養の御所となすも、入りおわしますなし。
此の拝殿の板に、毎度に御幸の人数を注せられること、先例と。左中弁、番匠を召し、板を放ちてカンナをかく。人数を書きて、元の如くに打ちつけしむ。後鳥羽院の御幸四度ということも書きつける。
これより又先陣して千里の浜を過ぎ、千里の王子、三錫の王子に参ず。これより昼養所に入りて食し終る。御所に参ずるの間、御幸すでに出でおわします。
この宿所より、御布施、忠弘を以て送り遣わす。絹六疋、綿百五十両、馬三匹というのが、定家自身の志す布施である。
ついで芳養(はや)の王子、出立(でだち)の王子に参ず。この浜に於て御塩垢離、御所にて御祓ありと。
又先陣し、田辺の御宿を見、私に宿所に入る。これは権別当の儲けにて、甚だ広い。御所美麗、河に臨みて深淵あり。
田辺は、熊野の玄関。熊野街道はここで那智、新宮に向かう大辺路(おおへち)と山あいを縫って本宮にでる中辺路(なかへち)に分岐する。
去夜寒風枕を吹く。咳病忽ちに発る。心神甚だ悩む。此の宿所また以て荒る。又塩垢離。昨今の間、一度あるべきの由、先達これを命ず。但し今日猶この事遂ぐ。
つづく
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